お釈迦さまは祈らない(阿含経9)「西方の人」 | 釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

お釈迦さまは祈らない(阿含経9)「西方の人」

ああ、今日もとんでもない時間になってしまった。
少しだけ、夜明けの「ひらがな写経」をしませう。

現代語訳を書き写すことを
勝手に「ひらがな写経」と呼んでおります。


「阿含経典」増谷訳3巻、「西方の人」。
(相応部42、6「西地人」、中阿含17、伽弥尼経)


お釈迦さまが合理主義者だという証拠に、
「祈ってもムダ」と宣言しています


アシバンダカブッダという村長が、
お釈迦さまのところにやってきて、
「バラモンはいろいろな祈りを捧げるのに、
なぜあなたは祈らないのか」と訊きます。


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「村の長よ、たとえばここに人があって、大きな岩を深い湖に投じたとする。
そこに、大勢の人が集まってきて、<大きな岩よ、あがってこい、
浮かんでこい、陸にあがれ>といいながら、
その岩のために祈り、それを讃え、合掌して、そのまわりをめぐり歩いたと
するならば、村の長よ、そなたはいかに思うか。
その大きな岩は、大勢の人々の祈願により、礼賛により、あるいは
合掌し周行したことによって、あがってくるであろうか。
浮かんでくるであろうか」


「大徳よ、そんなことはありません」


「村の長よ、それと同じく、ここに人があって、彼は命を取る者であり・・・
間違った考えをもった人間であったとするならば、
たとえ大勢の人々が集まって来て、
<この人が身壊れ、命終わりて後には、どうか善処・天界に生まれますように>
といって、彼のために祈り、彼を礼賛し、合掌して、そのまわりを周行したとしても、
その人は身壊れ、命終わりて後には、やはり六道にさまよい堕ち、
悪処・苦界・地獄に生まれるであろう」

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祈りの否定、奇跡の否定。
だからタイなど南伝仏教のお寺には、
祈りの時間がないそうです(お経は祈りじゃなく修行)。


自分を救うには、祈ってもムダで、正しい努力をするしかない
それは岩の喩え、つまり自然科学のように自明のことである。
恐ろしいリアリズムですよね。


それを、冷たいと言うなら言えばよろしい。
実際、仏教国・タイでも、一般人はドロドロに迷信と祈りに
浸っているそうです。
でも私はお釈迦さまを信じて、金輪際祈りません。



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