2本の矢のたとえ(阿含経その8)「箭によりて」 | 釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

2本の矢のたとえ(阿含経その8)「箭によりて」

もし家族や恋人が死んでも、
仏の道の人は悲しくもなんともないのでしょうか?
 
まったく心が動かない?

解脱とはいわば、感情が死滅した状態を目指せ、
ということなのでしょうか?


そんな疑問に、とてもわかりやすく答えてくれる
お経がありました。

「阿含経典」増谷訳3巻に出てくる
「箭(矢)によりて」(相応部36、6/雑阿含 17、15「箭」)です。
(以下、「 」内は増谷訳の引用)


わたしの教えを聞かない凡夫も、
またわたしの教えを聞いた
聖なる弟子も、
楽しい受を感じ、苦しい受を感じ

また苦しくも楽しくもない受をも感じる。」


同じように苦しみや楽しみを感じるなら、
では凡夫と聖なる弟子の違いはどこにあるのか?


凡夫は苦なる受に触れられると、
泣き、悲しみ、声をあげて叫び、胸を打ち、
心は狂乱するにいたる。
けだし、彼は二重の受を感ずるのである

それはたとえば、第一の箭をもって人を射て、
また第二の箭をもってその人を射るようなものである」


同じように、凡夫は、
苦に触れると瞋恚(しんに=いかり)を感じ、
眠れるいかりの素質が彼を捉える。
そして今度は欲楽を求める。
凡夫は、苦受から逃れる方法を、欲楽しか知らないからである。
欲楽を求めると、今度は貪欲の素質が彼を捉える。
つまり凡夫は、
楽を感じても、苦を感じても、それに繋縛されてしまう。


一方で聖なる弟子は、
苦なる受に触れられても、泣かず、悲しまず、
声をあげて叫ばず、胸を打たず、心狂乱するに至らない。

それは例えば、人が第一の箭をもって射られたが
第二の箭は受けなかったようなものである


なるほど。
仏の道の人といえども、例えば家族が死んだときに、
第一の矢(苦しいと感じる)のは仕方ないんですね。
第二の矢(泣き叫んだり狂乱して苦に囚われる)に
射られないように自分をコントロールすべし、と。

これなら、できないこともない・・かも!


お経の最後に詩があって、その第3節が印象的です。


心にそうも、そわざるも、
みなことごとく消えはてて、
清浄無垢の道をゆき
彼の岸にこそ立てるなれ


誰か日本の文豪が、
「たとえ子供の目が見えなくなっても、
『そうか』と平静でいられる人間になりたい」
みたいな趣旨のことを書いていた気がします。
仏教の知識がまだなかった若い頃に読んで、
やたらと心に残った一文でした。
誰だろう、夏目漱石? 壇一雄? 
私は本当にこの文を読んだのか、妄想か・・・。



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