お釈迦さまだって悩むんです(阿含経典 その2)
お釈迦さまのように合理的で、ある種、理屈っぽい方が、
なぜ説法に梵天や悪魔を登場させるのか?
お釈迦さまは、基本的に無神論者じゃないの?
「まあ、神や悪魔は何かの象徴なんだろう」
とはよく言われる話ですが、根拠はわかりませんでした。
『阿含経典』第1巻の解説で、増谷先生はこう書いています。
「あの『智恵の道』のおしえを説きたもうた釈尊の説法をしるした経の中に、
悪魔が現れたり、天神が出てくることに、なにかそぐわぬものが
感じられてならなかったからであった」
ところが、一つのお経を読んだときに増谷先生は
「『あっ』とばかりに声をあげて驚いたのである。
わたしは、わたしの不明を恥じた。
わたしの阿含経典を読む眼は、この時はじめて開かれたといってもよい。」
そのお経とは、「魔」(Mara)(「相応部」23、「羅陀相応」11)
と題するお経だったそうです。
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「傍らに座した長老ラーダは、世尊にもうしあげた。
『大徳よ、悪魔、悪魔とおおせられますが、大徳よ、
いったいなにを悪魔とおおせられるのでございましょうか』
『ラーダよ、色(肉体)は悪魔である。受(感覚)は悪魔である。
想(表象)は悪魔である。行(意志)は悪魔である。
識(意識)は悪魔である』」
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この経は
「疑いもなく、悪魔とは、汝自身の肉体と精神のなかに生ずる
迷妄であるということ」を明言している、と。
つまり、「悪魔説話は、一つの心理描写の文学形式」であって、
なにか、不安・疑念・躊躇が心中に表れたときには、
悪魔説話でそれを描写することが
「初期の経典における文学的約束事であったと考えられるのである」。
同様に、なにかすぐれた発想が浮かんだときは、
梵天さんが登場する「梵天説話」にするのが、文学的なお約束だったのでは、
と増谷先生は予測しています。
(「 」内は増谷先生の解説より)
降魔成道図。悟りを開くのを邪魔しにきた悪魔(女たち)も
お釈迦さまの迷いの風景だった・・。
そう思って読むと、お経が全く違う見え方をしてきますよね。
例えば、増谷本が例に挙げている「苦行」というお経
(悪魔相応の第一、漢訳雑阿含39,14)。
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お釈迦さまが悟りを開いてから間もなくのこと。
お釈迦さまは苦行を放棄したことを思い出して、
「あんなムダなことをやめてよかった」と思っていました。
そこに悪魔が現れて、次のように言います。
「苦しき業を離れざればこそ
若き人々は清めらるるなれ。
汝は浄めの道をさまよい離れて
清からずして清しと思えり」
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悪魔は、「釈迦よ、苦行から逃げておいて
悟ったとか言ってんじゃねぇよ」と非難しているわけです。
先の解釈でいえば、この悪魔発言も
釈迦の内なる不安ということになります。
当時の修行者はみな苦行をしていたのに、それを放棄するとは
堕落だといわれても仕方ない、
「だから釈尊が、その正覚の直後においても、なお、そのことについて
不安を感じたとしても、けっして不思議なことではないのである」
と増谷先生は指摘します。
言い換えれば、お釈迦さま自身が、
「私は苦行から逃げておいて、
悟った気になっているだけではないのか?」
という悶々とした思いがあったことになります。
悪魔説話は25経あるそうです。
ときには不安や躊躇や疑念を抱えながら生きていた
ひとりの人間・お釈迦さまが姿が見えてきて、
私は切なくなってしまいました。
少なくとも、私はそういう読み方のほうが好きです。
なかには、菩提樹の下で正覚を得たあとは迷妄ゼロ、
と見る方もいるようです。
でも「そんなわけない」と個人的には思うのです。
最初の悟りは「縁起」だったと言われていますが、
縁起の着想を得たからといって、一瞬にして人格が完成して
すべての迷いがふっ飛ぶわけないと思いません?
相田みつをじゃないですが、お釈迦さまだって人間だもの。
しかし、文学的約束事として神や悪魔を使ったのは成功でしたな。
お釈迦さまの内なる自問自答が延々続くだけだと、
読んでて面白くないですもん。

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