空の哲学「中論」に再挑戦(1)
数年前に読んで、全くチンプンカンプンだった『中論』に再挑戦しています。
ご存知のとおり、『中論』は、ナーガールジュナ(=龍樹、推定150~250年頃の人)が
「空」の思想を哲学的に構築したものです。
大乗の膨大な『般若経』類は、繰り返し「空」を説いているのですが、
その「空」思想を理論的に解説した龍樹。
大乗仏教を理解するうえで、絶対に避けて通れないのですが、
その難解さでも有名で、最初読んだときは吐きそうになって
脳内から葬り去っておりました。
たとえば、有名な『中論』第2章の、いわゆる「運動の否定」。
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<すでに去ったものは去ることがない。
まだ去らないものも去ることはない。
すでに去ったこととまだ去らないことを離れて
去りつつある時もまだ去ることがない>
(ざっくりいうと、
過去に去ったものは現在去ることはできない。
未来のものは、まだ現前してないから去ることはできない。
過去と未来と切り離された一瞬間の現在だけでは、
去るという運動は成り立たない。
だから、過去・現在・未来とも「去る」という運動はありえない)
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吐きそうでしょう?
万事この調子で、「Aもない、Bもない、Cもない、Dもない」
と否定のオンパレードで、論理学の本を読んでいるようでした。
私が一番わからなかったのは、
龍樹が何のためにこんな否定の論理を展開して、
それが大乗仏教の慈悲とか利他と何の関係があるのか?ということでした。
(実は、『中論』の解説を読めばちゃんと書いてあったのですが、
その解説の意味すら当時はわからなかった)
再挑戦できるかも、と思ったのは、
例の『仏典を読む
』(末木文美士著)の4章「否定のパワー 般若心経」
を読んでからです。
『中論』は、論争の書、つまりケンカを売っているらしいのです。
ケンカの相手は、主に、上座仏教一の有力部派「説一切有部」のアビダルマ論。
(知っている人からすれば、何を今更と思われるでしょうが)
『仏典を読む』では、こんなふうにかかれています。
「龍樹はほとんど過激といってよいくらい厳しく、詭弁すれすれの論法を駆使して、
我々の常識に挑戦する」
「(上記の運動の否定のような)論法は、『飛ぶ矢は飛ばない』とか
『アキレスは亀に追いつけない』といった古代ギリシャの哲学者ゼノンの
論法を思い起こさせる」
飛んでいる矢も、ある瞬間を見るとある空間を占めて静止していて、
どの瞬間もそうなのだから、矢は飛ばない、という理屈ですね。
でも、現実に私たちは「飛んでいる矢」を見るのだから、
それに反する理屈のほうがおかしいじゃん!
という態度をとることもできます。
「どうやら龍樹の言いたいことはそちらのようである。
その論法は、相手の前提に従うと奇妙な結論が出ることを指摘して、
それによって相手を論破しようという、いわゆる帰謬法に近いもので、
それによって相手の論理の前提が間違っていたことを証明するのである」。
つまり、先ほどの「去るという運動はありえない」というのは、
龍樹が「運動はありえないのです」と説いているのとは逆に、
「説一切有部のアビダルマ論師のみなさん、
あなたがたの論理によると、運動はありえなくなっちゃうでしょ?
おかしいでしょ? みなさんの論理は前提から間違ってまっせ!」
と論戦をしかけているらしのです。
という前提で、以前挫折した『龍樹』(解説+中論)を読んだら、
これが震えるほどに面白く、備忘録として何回かブログに記そうと思います。
龍樹さんは、説一切有部の何をそんなに論破したかったのかは、また明日・・・。
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