善良なる「悪魔のささやき」
「サンユッタ・ニカーヤⅡ」(『悪魔との対話』岩波文庫)の続きです。
この原始経典では、悪魔が出てきて、
お釈迦さまにいろいろな問答や誘惑をしかけ、身につまされます。
悪魔というのは、自分の心の迷いや、
世間の”常識”や、それを説きたがる人たちのことだと思われます。
たとえば・・・。
悪魔「なぜに人々とつき合わないのですか?
あなたはだれとも友にならないのですか?」
ブッダ「愛しく快い姿の軍勢に打ち勝って、目的の達成と
心の安らぎ、楽しい悟りを、私は独りで思っているのです。
それ故に私は人々とつき合わないのです。
私は、だれとも友にならない。」
悪魔「子ある者は子について喜び、また牛のある者は牛について喜ぶ。
人間の喜びは執著するよりどころによって起こる。
執著するよりどころのない人は、実に喜ぶことがない。」
ブッダ「子ある者は子について憂い、また牛のある者は牛について憂う。
人間の憂いは執著するよりどころによって起こる。
実に、執著するよりどころのない人は、憂うることがない。」
どうでしょう。
これらの悪魔のささやきは、とっても身につまされるものがあります。
「子供ほど、かけがいのないものはないわよ~」と言う良き母親。
「人と付き合って成長するんだ。人脈は財産なんだぞ」と言う上司。
「ひきこもってる君へ。友達って素敵だよ」みたいなメッセージ。
「金持ち父さん・貧乏父さん」のような、すべてのマネー本。
「こだわりを持って生きようぜ」という熱い人。
私たちの周りには、こういう善良な言葉があふれかえっていますが、
その意味するところは、悪魔の言葉と同じです。
もし「あなたも親になればわかるけど、子供を愛することって、生きがいよ」
と言われたときに、
「でも子供に執着するのって、不幸のもとだよね」と答えたら、
「性格異常者」に決定です。
「たとえ悟りを開いたとしても、
愛するものがない人生に何の喜びがあるのか?」
という悪魔の問いに、誰もそう簡単に答えは出せないでしょう。
(愛と慈悲は違いますもんね)
そう考えたとき、仏教のギリギリの厳しさ、
ある意味での反社会性に、私は感動します。

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