お釈迦さまと高級娼婦
聖書には、娼婦マグダラのマリアが重要な役回りで出てきます。
原始仏典でも、もっとも印象的な女性の一人として、
「遊女アンバパーリー」が登場します。
アンババーリーの画像は見つからず・・・。
80歳でお釈迦さまが亡くなる、最後の旅で、
商業都市ヴェーサリーにある、遊女アンバパーリーが所有するマンゴー林に、
お釈迦さまとアーナンダたちは留まり、食事をふるまわれます。
お釈迦さまは、弟子たちに「よく気をつけておれ」と何度も言っていて、
要は大美女・アンバパーリーの前でも欲情するなよ!と戒めてるわけですね。
弟子だちだって男ですから。
これに対する、中村元先生の注釈が面白いのです。
いわく、
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当時の娼婦はかなり裕福で、園林を所有するほどであった。
商業都市ヴェーサリーは、この娼婦のおかげで繁栄していたとさえ言われる。
アンバパーリーは蓮華のように美人で、躍りも歌も音楽もすぐれていて、
一夜にして50金(っていくら?)を受けた。
彼女はかねてからお釈迦さまに帰依していた。
それを聞いて、王舎城の人々も、負けてなるものか、と思って、
サラーヴァーティーという少女を遊女にしたて、一夜に百金を受けさせた。
(わたくし註:すごいですね!高級売春で町おこしですよ)
このような遊女によって代表されるような都市の文化ーー
それは進展しつつあった貨幣経済の所産であって、
ヴェーダの祭りに代表されるような農村共同体の文化とは本質的に違う。
このような爛熟した、退廃的な雰囲気のなかから、
それに対する解決・解脱として、仏教などの新宗教が現れたのであった。
(「ブッダ最後の旅」P225)
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つまり、今までの田舎っぽい呪術的なバラモン教に対して、
仏教は都会的な宗教であって、
今でいえば東京とかNYのように欲望うずまく退廃的な都市だからこそ、
お釈迦さまは「欲望を捨てよ!」と口を酸っぱくして言ったのだと。
この遊女アンバパーリーには、瀬戸内寂聴がガッツリと食いつきまして、
寂聴先生の小説『釈迦』は、遊女のマンゴー林の生々しいシーンで始まります。
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雨の中をアンバパーリーの娼館から帰ったら、竹林の小舎の中で、世尊はまだ眠りつづけていられた。
(中略)
さっき、アンバパーリーが緋色の絹に金糸で花や鳥の刺繍のほどこされた窓のカーテンのかげから、
身を乗りだすようにして、窓の外に立っている私をじれったそうにさし招いていった。
「アーナンダさま、もっと近くへお寄り下さいましな。そこじゃお話も出来ませんわ。
それともそんなにこの館が穢らわしくてお厭ですの。
尊師さまは、この館の中で、
あのようにおくつろぎ下さって、私ども穢らわしい女たちが心をこめてお料理したものを、すべて気持よく召し上って下さいましたわ。それなのにそのお弟子のアーナンダさまといったら……」
「そんなつもりはいささかもありません。私は修行がたりないので、世尊のお供でない時は、人一倍自分にきびしくしないと、自信がないのです」
「まあ、何て素直なお方、だから私は、アーナンダさまをお弟子さまの中でも一番頼りにしておりますのよ」
明らかに今朝のアンバパーリーは、それとわかる寝乱れ姿で、化粧もまだ終えていなかった。
漆黒の長い髪がほどけ、肩に垂れさがっている。髪に縁どられた化粧の落ちた素顔はしっとりと自分の脂でうるおされ、口紅のとれた唇は嬰児の口のように瑞々しく、
無憂華(アショーカ)の花の色さながらだった。
『釈迦』第一章
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危ない、アーナンダ様!
後に、年老いたアンバパーリーは「テーリーガーター」(「尼僧の告白」)で、
すっかり老け込んだ自分を「無常だわ・・・」と嘆くのですが、それはまた後日。
しかし聖書や仏典で、美しい娼婦が重要なキャラクターなのは、なぜでしょうね。
男性の、「娼婦=聖女論」というか、
昼間(や内面)は聖女なのに夜(や外見)は淫乱
、という理想の女性像を反映していて、そういう経典はウケがいいのでしょうか。
いまでもその理想像は根強いみたいですけどね。
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