輪廻はドミノ倒し
「心」をどう考えたか その1
木村泰賢全集5-6
<無我なら、「誰が」認識するのか?>
お釈迦さまが説いたのは「無我」(永続する実体としての「我」はない)。
だが、部派仏教時代になると、基本は「無我論」でありながらも、
実質的に「有我論」に近い主張をする派も出てきた。
「無我」と「輪廻」に関する難問があったからである。
いわく、もし無我ならば
・生死に流転するものは誰か?
・記憶はどうやって起こるのか?
・認識の主体は誰か?
・業をつくって、それを引き受けるのは誰か? などなど。
これに対して、無我論者は、
・認識には固定した主体は必要ない
(根と境、たとえば眼と色が触れたときに相=表象が
思い浮かぶだけであって、主体=知り手は必要ない)
・記憶にも主体は必要ない
(かつて経験した表象が再び意識に現れるだけのこと。
前念と後念の生滅のあいだに絶えざる連続があるから、
Aさんの記憶がBさんに浮かぶようなことはない)
といった反論をした。
(つまり、主体がないのに業や記憶が継続するのは
「ドミノ倒し」のようなものだと)
一方で、18部派のなかで、実質的に「有我論」に近い主張をしたのは、
おそらく上座部系の犢子部や経量部など、数派があったと思われる。
=犢子部(とくしぶ)の「非即非離蘊の我」、経量部の「根本薀」など。
↓
これらが契機になって、
後に大乗唯識哲学の「阿頼耶識」が登場したともいえる。
<46種類の感情>
原始仏教時代から、感情を3つに分類していた。
・苦
・楽
・不苦不楽(または捨)
感情生活に振り回されるのは精神修養の道ではない、として
堅くいましめた(例 「受を総じて苦と感ぜよ」)
貪・瞋・癡(とん・じん・ち)の三毒もこれに対応したもので、
・楽に対して貪(むさぼる)があり、
・苦に対して瞋(いかる、憎む)が生じ、
・不苦不楽に対して癡(おろかさ、無智)がある
阿毘達磨時代になると、ますますこの種の説明がこまかくなり、
説一切有部は「心所=心の作用」を46種類に分類した。
たとえば煩悩についても、下表のようにこまかく分類している。
一方で、下表の大善地法のように、
「良い」ほうの感情も無視してはいない。
(原始仏教時代から道徳的に重んじられてきた
四無量心=慈・悲・喜・捨は、なぜか「心所」には入っていないが)
しかし、阿毘達磨時代の仏教は分類フェチだなぁ・・・。
説一切有部・六位四十六の心所分類法============================================
大地法 … 受・想・思・触・欲・慧・念・作為・勝解・定
大善地法 … 信・不放逸・軽安・行捨・慚・愧・無貪・無瞋・不害・精進
大煩悩地法 … 癡・放逸・懈怠・不信・緒沈・掉挙
大不善地法 … 無慚・無愧
小煩悩地法 … 忿・覆・慳・嫉・悩・害・恨・諂・誑・?
不定地法 … 尋・伺・悔・眠・貪・瞋・慢・疑