原始仏教思想論3 | 釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

原始仏教思想論3

原始仏教思想論3

              木村泰賢全集3-3


ブッダ当時の世界観は以下の3つにわけられる。


・宿命論=すべては前世の業で決まるので、後天的には変えられない。
     世界の一切は自然のルールで決まり、人の力では変えられない。
     (たとえばマッカリゴーサーラの主張)
・神意論=一切は神の意志で決まる(バラモン教)
・偶然論=因も縁もなく、一切は偶然。何らの規定も理法もない。
      (6師のプーラナ・カッサバなど)


ブッダは、3つとも非理として排斥した。
なぜなら、ブッダの求めた「人生観の基礎としての世界観」は、
「世界の事象を矛盾なく解釈できる」と同時に、「それによって人生の
道徳的宗教的価値を増進できる」ものでなければならなかった


◆ 因縁論 ◆


上記のような説に対して、ブッダが提出した世界観は、
「諸法は因縁よりなる
 =一切の現象は相対的依存関係の上に成立するもので、
  その関係を離れては、一物として成立するものはない」。
 (もしこれあれば彼あり、これなければ彼なく・・・・)


・異時的因果関係(過去→現在→未来)
・同時的因果関係(空間的に眺めた因果)
の無数の網で織り成されたもので、網を引いて相互に関係しあっている。

だから、世界は無常変遷してやむことがない。


<同時的因果関係>

もっとも根本的なのは、主観(認識主体)ー客観(対象)の因果関係。

「何をか一切(全宇宙)という。眼と色、耳と声、鼻と香、舌と味、
 身と触、心と法、これを『一切』と言うなり」
=すなわち、全宇宙といっても所詮六根六境の認識関係(因果)の上に
成立するもので、これ以外の境は、少なくとも自分に対する世界としては
何の意義も持たない。


<異時的因果関係>
生きようとする根本動機から、種々の経験を積んで自らの性格をつくり、
これに応じて後来の運命・境界・性格を開拓する。

この両者を結びつけたものが「十二因縁論」。



 無我論 ◆


すべてが因縁の産物なのだから、
(当時一般に考えられていたような)「固定的霊体としての自我」などは
空想の産物に過ぎない。
「この(五)薀、(十八)界、六処もまた因縁によりて生じたもので、
 因縁滅すれば滅するものなり」


我は固定的ではなく、「瀑流」のようなもの。


ブッダが無我論を強く主張した理由の一つは、
有我論より無我論のほうが、人々の人格的価値を増進するうえで
かえって有効だ、
という実践的理由からであった。


いろいろな悪行は、我執我欲、要は我所に執着することが根本である。
固定的な我を認定することは、やがて我執我欲を認定することとなる。
よって無我説のほうが有効である。


無我論は、消極的にいえば我執我欲を離れるための禅観的修養の公案となり、
積極的には愛他的道徳を奨励する(大乗の)基礎となった。


※無神論は数論派もジャイナ教も主張するが、
 固定的生命を否定したのは、解脱を求める宗教としては仏教以外にない。



◆ 五薀 ◆


有情の成立要素を、いろいろな分け方で説明した。
(六界=地水火風空識、四食、十二処、十八界など・・)

なかで一番よく用いられた説明は、「五薀」。
・色(物質)
・受(感情)
・想(表象)
・行(意志)
・識(意識)

どの分類にせよ、生命は種々の要素の集合体だと見た。


◆ 有情成立の動力因 ◆


その各要素を繋ぐ膠料、有機体たらしめる動因はなにか?
→ブッダは、いろいろな言いあらわし方をした。
 「業、無明、欲、執着、煩悩」など。

  これらが、五薀を結合させる膠料である。


「欲を因とし、欲を集とし、欲によりて生じ~」
「諸業、愛、無明は因となりて~」


その動因となる「無明」とは、単に「無知」という意味ではなく、
「生きようとする盲目的な元本的意志」である
(木村説)。

意志の根底とされるのが、無明、渇愛、欲などと説いてあるところ、
同様の意味でないか→生の元となる意志


つまり、「生きんとする意志(無明)によって、意識活動を起こし(五薀結合)、
それが有情自体の性格を形成し、未来の自体を規定していく過程が、
すなわち業(カルマ)である」。


※このような説明は、要は観察に便利だからである。
 衆生に話すうえでの便宜的な教化法にすぎず、ブッダ自身が、生命を
 このように機械的に考えていたわけではない、と思われる。



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