原始仏教思想論1
原始仏教思想論 1
木村泰賢全集3-1
入滅後100年程度、部派に分裂する前の仏教とする。
阿含部聖典(律部を含む)の漢訳とパーリ語聖典を史料とする。
(パーリ語聖典でいうと)
長部 (diigha-nikaaya (pali)) 長阿含経、 長編の経典。
中部 (majjhima-nikaaya) 中阿含経 、中編の経典集。
相応部 (saMyutta-nikaaya) 雑阿含経、 短編の経典集。
増支部 (aGguttara-nikaaya) 増一阿含経(ぞういつ-)
小部 (khuddaka-nikaaya) - 法句経(ほっくきょう)や本生経(ほんじょうきょう)
など
◆ 経典・律を解釈するときの注意 ◆
・特定の相手・場面で説かれた説法が多いので、経の言葉尻がそのまま一般にあてはまるブッダの本意とは限らない。言葉尻でなく、その精神を汲み取るべきである。
・律は、後年かなり窮屈なものになったが、本来はこれも特定の状況によるもので、
ブッダ自身が入滅時にアーナンダに「我が滅後に小戒を捨ててもよい」と言ってる。
・ブッダは、その基本教理を害さない範囲で、当時の習慣や信仰と協調した。
教化の必要があればそうしたが、相手と状況によっては否認した。
→ 教説のなかに矛盾する表現が出てくるのは、そのためである。
(例:梵天信仰は、一般に対しては、「ブッダの賛嘆者」などの形でこれを認めた。
一方で、梵天を絶対者と見るバラモンなどに会えば、
「誰が梵天を見たことがある?いたずらに実なき名称に憧れるのは意味がない」
と否認した。
ブッダは正覚を得て(悟りを開いて)から、37日間悩んで、 「こんな甚深な法は、
誰にも理解しえない」とうれいて布教を断念しようとした、とされる。
それほどの法を、衆人に、いきなりまともにぶつけたとは考えられない。
(合理的なる仏教に梵天さんや悪魔マーラが出てくる謎が解けた!!)
(木村先生の考えるに)
後年、あまりに語義解釈に偏ったので、ブッダの精神を汲もうとしたのが大乗運動の一起源である。
「ブッダは阿含聖典以外に種々の大乗経を直説した」という大乗家の主張は許し得ないが。
ブッダの立場は、それ自身としては、小乗でも大乗でもなく、同時に、小乗にも大乗にもなりうべき要素を備えている。
◆ ブッダ時代のインド ◆
<BC6~4世紀は、インド文明の中心地が移動した、特別な時代だった。
階級的にも「クシャトリア文明」と名づけられるべきものである。>
バラモン文明の本源地だった「中国地方」からみれば、
マガダ国などはアフガニスタンなどと同じように「ド田舎」「外国」視され、
バラモン法典上では半野蛮の下等種族とみなされたほどだった。
だが、政治文化の中心だったクル、パンチャーラなどの種族が
「マハーバーラタ」にあるような大戦争で疲弊。
それに参加した田舎大名が、中心地で感化を受けて、祖国に帰り、
文明開化・富国強兵をはかった。
ブッダ時代の16の国がそれで、すべて「新興国」であった。
コーサラの舎衛城、マガダの王舎城等、ヴァンサー、コーサンピ、ヴェーサリーなどは、当時もっとも有名な新しい都市で、文化運動の中心だった。
バラモンの影響も少なかった。
ブッダはその新興国で修行・布教し、信者もクシャトリャ、金持ちの商人など、
当時の新興実力者だった。
特にマガダ国はビンビサーラ王が独自の暦を作ったぐらいで、
新思想なら何でも歓迎、ぐらいのノリだった。
→ だから、6師外道・仏教のような非バラモン的新思想が発展した。
※日本でいえば、京都の公家文化から、鎌倉時代の武家文化に移った時代のようなもの。
◆ 当時の思想界もさまざまな潮流 ◆
いろいろな学派、主義がおこって、お互いに弁難攻撃しあっていた。
1)正統バラモン教的潮流
2)俗信的潮流・・・梵天・ヴィシュヌ・シヴァの3神を中心に、神を信仰。
バラモンの通俗運動の一種。
3)哲学的潮流・・・梵書、ウパニシャッドの思想を理論的に追求。
六派哲学の多くは、この時代に種子がある。
4)非ヴェーダ的潮流・・・6師、仏教
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