自分探しはやめよう『春と修羅』
小学生のころ、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」や「よだかの星」
「注文の多い料理店」などを、うっとりしながら読みました。
おとなになってから、詩集「春と修羅」を読んで、
この序文の最初の部分に、唸りました。
「春と修羅」は、1924年(大正13年)、
賢治の生前に唯一刊行された詩集です。
==春と修羅 序文 =============
わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち、その電燈は失はれ)
(以下略)
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仏教の一番だいじなことを、こんなに短く、美しい文章で、
書き記すとは、なんたることでしょう。
「わたくしという存在」はない。
「わたくし」は「現象」である・・・・。
できることなら、これをマ
ガダ語に翻訳して
お釈迦さまに読んで頂きたいです。
宮沢賢治が仏教徒だったことは有名ですが、
もちろん、いわくつきだったことも有名です。
宮沢家は浄土真宗、賢治自身は日蓮系の国柱会に入ります。
国柱会は「バリバリに戦争協力をした」ということで、
日本仏教史のなかで、かなりダークな存在のようです。
「賢治は仏教徒といっても、あれだろ、国柱会だろ」という
言われ方はあって、それはたぶんダークなのでしょうが、
それでも、この序文の美しさはまったく損なわれません。
だからもう、「自分探し」で人生を浪費したり、
「誰も本当の私をわかってくれない」と嘆くのは、
やめたほうがいいんじゃないでしょうか。
「わたくし」が「存在」だと思うと、
どこかに実体としての「本当の私」がいるという錯覚に囚われます。
でも、「わたくし」は、因果交流電燈の、青く明滅する豆電球です。
玉ねぎの芯の部分に「私」がいると思って、
どんどん玉ねぎの皮をむいていっても、芯には何もない。
それに気づいたとき、私はかなり楽になりました。
というような感じ方は、だいぶ普及したのかと思ったら、
何年か前に、サッカーの中田が、
「新たな自分探しの旅に出たい」とHPに書いて引退してしまい、
それに共感する人も数多く、
え、そうなの?その言葉はまだアリなの?と腰がくだけました。
フィリピンのスラム街で子供たちと球を蹴ったりして、
本当のナカタを探したようですが、
ちゃんとテレビクルーを連れて行ってたんですね。
「春と修羅」は、いろいろな出版社から出ていますが、
もう著作権が切れているので、ネット上も読めます。