艶っぽく物憂いタイ『暁の寺』
タイのワット・アルンに行ったついでに、
この寺が出てくるという三島由紀夫の『暁の寺』を読みました。
(ワット・ポーも大理石寺も、インドのヒンズーの聖地・ベナレスも
アジャンタの洞窟寺院も出てきました)
20年ぶりぐらいに三島由紀夫を読んだけれど、本当にすごい!
タイの暑さ、物憂さ、樹木、花、寺を、こんなふうな言葉を選んで、
こんなふうに美しく的確に表現するとは・・・。
第一部で、主人公の「本多」はオリエンタル・ホテルに滞在して、
日本人の生まれ変わりだと言い張る幼い姫に会います。
タイの寺の風景描写もめちゃくちゃ美しいのですが、
仏教についても学ぶところが多々ありました。
「万有のどこにも固有の実体がないことは、あたかも骨のない
水母のようである。
しかしここに困ったことが起こるのは、死んで一切が無に帰するとすれば、
悪業によって悪趣に墜ち、善業によって善趣に昇るのは一体何者なのであるか?
我がないとすれば、輪廻転生の主体はそもそも何なのだろうか?」
「今にして本多は、シャムの二王子の絶やさぬ微笑と憂わしい目のうらに
あったものが、何だったか思い当たった。
それはこの燦然たる寺や花々や果実の国で、物憂い陽光に押しひしがれながら、
ひたすら仏を崇め輪廻を信じて、なお論理的体系を忌避するところの、
黄金の重い怠惰と樹下の微風のたゆたいの精神だった」
「いみじくも言われているように、ヒンズー教がその友愛の抱擁によって
仏教を殺したのである。
仏教が世界的な宗教になるためには、その母国をより土俗的な宗教の支配に
委ねて、いったんそこから放逐されなければならなかった。
ヒンズー教はその万神殿のほんの片隅に、仏陀の名をお座なりに残した」
「そうだ、刹那刹那の確実で法則的な全的滅却をしっかり心に保持して、
なお不確実な未来の滅びに備えること・・・・
本多は唯識から学んだこの考えの、身もおののくような涼しさに酔った」
『暁の寺』は、「豊饒の海」4冊の3冊目ですが、
3冊目だけでも(いや、3冊目の第1部だけでも)読む価値ありまくりです。
(「暁の寺」新潮文庫)

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