『貴方は…私の…』(真斗春歌)
 
____♪
 
春歌の指先は、軽く鍵盤を弾いていく。
その動きに戸惑いは無く、滑らかに音符を作り上げて、練習室に響き渡り、聞く者を惹き寄せる曲を紡ぎ出していた。
 
ただ…いつもと違うのは、ピアノに作っている曲を書き記す為の譜面が無い事。
曲を作っている過程で、真っ白な状態でも譜面が無いのは、学園に入って譜面が読める様になってからは、滅多に無い。
 
それでも、春歌は、体を曲に身を任せた状態で弾き続けている。
 

 
 
「…出来ましたっ」
 
自分に溢れ続ける音を、鍵盤で即興する作業を重ねていた為に、欠片の休憩時間だけで、春歌は今日一日を過ごしていた。
そして、終わった事を知って、自分の肩に、そっと手を乗せた存在の方に視線を向けた。
 
____正しくは、顔を向けた。
 
「えっと」
 
首を、こくん。と倒して、相手の顔がある場所だと思われる方に微笑みを零すと、ふわりと撫でられた春歌は、指先や体に感じる疲れが軽くなる様な錯覚を感じて、肩から完全に力を抜く。
ストレスから、視力に一時的影響が出て、更に光に弱くなった為、その負担を軽くする為、普段は澄んだ瞳がある場所には、真っ白な包帯…痛々しく見えるモノが存在していた。
 
「一ノ瀬さん」
 
春歌は、自分を優しく撫でながら労わる相手に微笑むと、自分の荷物を纏める為に、あるべき場所に手を伸ばす。
その手に、そっと同じモノが重ねられ、春歌のしようとしてた事が終わっているのを荷物を渡す事で、相手は知らせた。
この状況になり、一番最初に駆け付け、大丈夫だからと言いたいかの様に、動揺する心が落ち着くまで、この手はずっと撫で続けていた。
 
「一ノ瀬さん。ありがとうございます」
 
ニコっ。
春歌は渡された荷物を大切そうに抱えると、数日で当たり前の様になった、自室までのエスコートを受ける為に、感謝の言葉と手を差し出した。
 
「今日は、曲が出来ました」
『はい』
「えっと…」
『楽譜は任せて下さい』
「すみません」
 
相手は、春歌を迎えに来た時から、その美声を聞かせる事は無かった。
ストレスで視界を奪われた春歌は、喉を練習のし過ぎで痛めたと、手のひらに書かれた言葉を信じて、今もその文字を頼りに会話をしている。
 
見えない世界は、全てを覆う色…真っ暗としていて、繊細な春歌の心が、簡単にパニックを起こす方向に意識が傾く事があっても、仕事以外ずっと一緒に居る存在が有った為に、初日の様な動揺は少ない状態が続いていた。
 
「あのっ…明後日、視力の様子を見てみようかと言われました」
「…っ」
「色々…すみません」
『いえ』
 
ビクリ。
春歌は、自分の視力が回復したかもしれないと…その効果をくれた存在に伝えた時、いつでも声色が聞こえなくても安心を与えてくれていた手が細かく揺れた事で、足を止める。
 
数秒。
相手は困った様な動きをした後、また普段の様に春歌を部屋までエスコートした。
 


ゆっくりと、リビングの椅子に春歌を座らせると、癖の様になった
<頭を撫でる>
動きを一つすると、食事を作る為に、キッチンの方向へと移動していく。
 
春歌は、その音を聞きながら、先程の反応が引っ掛かっていた為に、自分たちの一日を、思考の中で思い返して首を傾げていた。
 
「おかしい…所は…無いですよね」
 
相手の気配が無い事を良い事に、ポツリと疑問を零す。
暗闇の中。
光さえも刺激になると言われた時。
自分の心には、以前自分がこの場所に居ると言う理由をくれた存在、HAYATOの姿を思い出していた。
 
いつでも全力で、仕事をこなしている姿。
その透き通った声色。
明るい笑顔。
偽りなモノで作られていたと告白をされても、春歌にとっては、輝きはHAYATOそのものだった。
  
学園に入り、自分の憧れていた存在を演じていた、一ノ瀬と言う存在のパートナーになる事が出来たのは、春歌にとって夢の様な事で、日々幸せの塊状態。
その興奮状態のまま…曲を作り、更に作り…重ねた為に、体が精神に追い付かなくなって…今回の状態を引き起こしてしまった。
 
『すみません』
 
一ノ瀬さんの声とは思えない位の掠れた小さな声で、視界が奪われた直後に抱き締められ告げられた時、もう二度と心配を掛けないと、春歌は心に誓った。
それからの毎日、自分自身に多くのモノを与え続けてくれた事には、感謝の気持ちを言葉にしても足りない程で、今作っている曲も、その相手のモノ…。
喉が日々回復するのを待ってはいても、何故か微かな声すら、与えてはもらえずにいた。
 
「まだ…痛いのでしょうか?」
 
春歌は、自分の喉に手を当てて、相手の痛みを思い遣る。
そして、憂いの表情を浮かべ、キッチンの方向に顔を向けた。
 
_____その視線の先には、自身の内部から来る痛みで、顔を歪めている一人の男がいた。
 
一ノ瀬と、春歌から呼ばれている存在。
それは、春歌を病院に迎えに行った時から…その人物に成り代わっている、聖川真斗の姿だった。
 
 
 
「俺は…何を…」
 
一日の間。
何度も繰り返した言葉を、トキヤ以外の人物だと疑ってもいない春歌の姿を遠くから眺めながら零す。
迎えに行った時。
瞳に包帯を巻かれた姿を見るまでは、現状になる未来は考えてもいなかった。
パートナーであるトキヤの隣で、幸せそうに微笑む姿は、陽だまりの様で、常に<跡継ぎ>と言われて好奇の視線で見られていた真斗の心を救う効果を持っていた…同時に嫉妬で狂いそうになる焦燥感で苦しむ事になったとしても…。
 
同じクラス。
春歌がピアノが弾けない。
苦しみ、思い悩んでいた時に、学園に入る事を決心させた出会いの時から作っていた曲を二人で奏でる事が出来た。
 
あの時の高揚感は、罪悪感で苛まれている今でも、心に温もりを与える為…真斗は、このまま春歌の視界が戻らない方が…と、悪魔にさえ心を引き渡しそうになるのを、必死に引き止めていた。
 
トキヤに勝てる事は到底有り得ないのは、真斗には痛い程分かっている。
それでも、何度も諦めようと、春歌に廊下ですれ違う事すら、出来ない状態を作り出す等の作戦を決行しても…真斗の心から、陽だまりが無くなる事は無いかった。
 
「明日。皮肉な事だな」
 
大声を出さなければ、聞こえないと分かってはいても、真斗は最小限の声で呟く。
大切に思う程、春歌をこれ以上苦しめる事には追い込みたくは無かった為に…。
 
「一ノ瀬にメールをせねば…な」
 
茶を入れる準備をしながら、真斗は本物のトキヤにメールを打ち始める。
 
 
<明日、七海の目の検査があるそうだ。
    あの件は、頼む
              聖川>
 
一文字一文字。
全ての終わりを刻み込む様な文章は、送信のボタンを押す事で真斗の手から離れて行った。
 
春歌の迎えを、空港に居るトキヤから電話で知り、
『他の人には任せる事が出来ない…視力に問題がある様で、信用出来る聖川さんにお願いしたいのです』
今思えば、その願いを、踏み躙る事になったと、真斗は何度も心で、叫び苦しみを感じながら、繰り返し思い出していた。
 
最初、春歌が『一ノ瀬さんっ』嬉しそうに真斗を迎え入れなかったら。
ストレスから来る症状の為、患者の好きな事を、無理なくさせた方が良いとの言葉を医師からもらわなかったら。
『彼女が間違えているのでしたら、そのままで』トキヤから、代理の了承が出なかったのなら。
 
もしかして。
その言葉で、現状にならずに済んだ未来の事を、真斗が思ったとしても、既に時は手遅れな程過ぎ去っていた。
 

 
包帯が無くなる当日。
 
春歌が待合室から診察室に消える時…最後…もう二度と触れ合う事も無い存在を真斗は、ゆっくりと包み込む様に抱き締めると、絶妙なタイミングで戻って来たトキヤと、立ち位置を交換して、その場を去った…。
 
 
 
 
「一ノ瀬さんっ」
「はい。此処に居ます」
「えっと、大丈夫そうです」
「そうですか。それはとても良かったですね」
「…はいっ」
 
数点の検査をした後、春歌は完全に回復した事を、自分を支え続けてくれた相手に伝えようと、診察室を飛び出した。
この日までに、数回通院した時には、診察室を出た瞬間には、温かな手が迎えてくれた事が癖になっていたのか、一歩踏み出し困惑した表情をした後に、離れた場所に居たトキヤの姿を見て駆け寄る。
 
その日。
寮に帰るまで、トキヤと視力を回復した喜びで春歌は、はしゃぎながら多くの事を話し掛けると…何故か、トキヤは優しい声色を使って返事が出来ていた為に…。
『…あの…いえ…何でもありません』
次第に、会話は減って行く結果になった。
 
何かがおかしいと、春歌の心には、靄がかかっていく。
ずっと、視界を奪われると言う不便な状態でも、自分を支えて励ましてくれた存在。
その存在を、回復した視界で見る事が出来ていて、更に求めていた声色も受け取っている…その幸せな状況でも、最後自室に帰り、トキヤと別れ扉を閉めた後、小さな唇からは…溜息が生まれていた。
 
 
 
______そして。
春歌は、その靄の正体を知る。
自分が、心から求めている存在の為だけに作った曲が書かれた楽譜を手にした瞬間に…。
 

 
視力が回復した後。
 
事務所の方で数日は、ゆっくりとした方が良いと、予定を組まれていた為に、仕事が手元にない春歌は、練習室に足を向けた。
 
目的は…一つ。
 
 
____♪
___♪
__♪
 
丁寧な音符で書かれた譜面。
それは、書き手の思いが詰まっている様に感じた春歌は、弾き出す前、一度音符を指で丁寧になぞっていた。
 
最初に間違えたのは、自分自身。
パートナーなのだから、心配してくれたのだと。
 
それでも、パートナー相手にしては、有り得ない位大切に保護してもらっていた事で、その姿が見えなくても惹かれていき…今では、その思いで心が押し潰されそうになる程、その人を求めていると春歌は感じていた。
たとえ、暗闇から、光満ち溢れる場所に、支えてくれた姿が晒され、真実が目の前に付き出されたとしても春歌の思いが、ぶれる事は無いと言い切れる程に…。
 
「良い曲ですね」
「…あっ…一ノ瀬さん」
「その曲、パートナーである私の為の曲ですね?」
「…ぁっ」
 
愛しい姿を思い浮かべながら、春歌は鍵盤を打つ行為で思いを告げていた。
何回も。
繰り返して、自身の内部にある思いを膨らませていると…練習室に、春歌のパートナーであるトキヤの声が響き…春歌の指が止まる。
 
『これは』
 
春歌は動揺が隠せない。
パートナーである一ノ瀬に願われれば、自分の曲を提供するのは、当たり前の事。
たとえ、それが別の相手を求め書いたモノだとしても。
 
それでも、普段は自身の意見をはっきりと言えない春歌が、軽い抵抗の言葉を呟こうとした時…
何かを含んだ様な微笑みをトキヤは零した後…
『もう一度、弾いてくれますか?』
パートナーとしてのもう一つの願いを春歌に差し出した。
 
曲の受け取りが、ほんの数分伸びただけでも、春歌は安堵した息を吐き出して…鍵盤に指を置いてトキヤの合図で弾き始める。
 
 
 
そして。
普段から曲のみを作っている春歌が作る訳も無い、弾いている曲の歌詞を突然、トキヤが歌い始めた。
 
一瞬。
春歌は驚いたものの、一度弾き始めてしまえば、止まらない思いと指先で、そのまま続けると…途中からは、もう包帯も無い瞳で、しっかりと見える筈の視界が歪み始めたのに気付く…。
 
____泣き出していた。
 
 
 
お前の傍の心地良さ。
それがたとえ、一時的な楽園だとしても、
与えらえた運命に感謝している。
 
ずっと、
お前だけを見守っていよう。
 
俺に新しい道を示してくれた天使。
 
心の中にいる悪魔が暴れない様、
もう傍にはいられないとしても。
 
ずっと、
お前の幸せを祈っていよう。
 
 
 

 
一番の歌詞だけでも、春歌の心に沁み込んでいく。
 
その曲を書いた人物が、今の歌い手ではない事には、もう気付いていた。
そして、その人物が誰なのかも。
 
 
____♪
 
最後の一つを弾くと…春歌は振り返り、トキヤに視線を向けると、ふわりと頭を撫でられ…弾いている間に感じていた事に間違いが無いと、頷いた。
 
「ごめんなさい」
「残念です。HAYATOを演じている事は、とても苦痛でしたが、君が僕を選んでくれる理由になったと好きになれたのですが」
「…あのっ」
「ええ。パートナーの座は渡しません。ただ…この曲は、私のモノではありませんね」
「…はい」
「その作詞家に伝えていただけますか?『譲れない』と」
「ぅっ」
「くすっ。君は気にしなくて良いです。私たちの戦いですから」
「…っ」
「さあ。行きなさい」
「ありがとうございます」
 
ペコリ。
可愛らしい動きで、一度トキヤに礼をした春歌は、心に浮かぶ存在に向かって走り出した。
 
異性に触れられるのに慣れていた訳では無い。
暗闇が理由なら、親友に救いを求める事も出来た筈。
それをしなかったのは、意識では重ねる事が出来ていなかったとしても、以前重ねられた手の温もりと救われた心が求めていたからだったと、春歌は譜面を抱き締めて、更に移動を加速させていく。
 
勿論。
無意識に、ドジな事をしてしまう春歌が、スピードを出して走ってしまえば、起こる事態は…ただ一つ。

 
「危ない」
「…きゃっ」
  
久し振りに聞いた声色で、確実に転んで痛みを感じると予想出来る状態でも、春歌は体から力を抜いてしまう。
それ程までに、春歌は相手を信用していた…。
 
「七海。危ないぞ」
「…聖川さん」
「どうした?」
「あのっ…ありがとうございます」
「…ああ」
 
春歌の予想通り。
バランスを崩した体は、真斗の腕の中に包まれいていた。
感触。
安心感。
作詞家で間違いは無いと思ってはいても、姿を見て思いが更に固まり、微笑みを零して喜びを全開にして真斗を見つめた。
 
その微笑み。
もう触れられないと戒めていても、運命で腕の中に再度戻ってきた春歌のへ愛しさで…真斗は抱き起しながら、きつく抱き締める。
 
同時に零れたのは…
『すまない』
視力が無くなった当日。
同じ様に堪らなくなり、抱き締めた時には、トキヤの真似をした台詞に変えたモノも、今は真斗自身のモノで紡がれた言葉。
 
「すまない」
「聖川さん…歌詞、素敵でした」
「…っ。何故…お前が…」
「一ノ瀬さんが、教えてくれました、そして『譲れない』と…」
「…一ノ瀬…」
「聖川…さん」
「七海…俺は…もう、無理だ」
「え?」
 
腕の中に居る存在。
後継者だと、言い聞かせられてきた様に、諦めれば。
自身に言い聞かせたとしても、その存在によって、アイドルの道が開かれ、今は愛の扉も叩かれているのだから…その刺激に真斗が耐えられる筈も無く…。
 
腕の中の春歌が、
『くぅ』
子犬の様な吐息を吐く程に、強く抱き締める力を緩める事も出来ず、真斗は本音を口にし始めた。
 
「一ノ瀬で良かった」
「…ぅ?」
「お前の傍に居る権利がもらえるのなら。パートナーの座を奪われた俺にとって、今回は最初で最後の縁だと」
「…聖川…さん」
「だが…無理だ。俺には、お前が…七海春歌が必要だ」
「…私も…」
「…っ。春歌っ」
「な…まえ」
『好きだ』
『好き』
 
練習室から、少し離れているとはいえ、普通の廊下。
普段、規則に口煩い真斗がする行動とは思えないモノが今、春歌に落とされている。
手を繋ぐだけで、回数が増えた心音の更に上があったのだと、五月蝿い程になっているモノを春歌は感じながら、そのキスを受け止めた。
 
好き。
その思いをお互いに伝え合いながら…。
 
____そして。
恋人同士になった二人。
ゆったりとした日々が、続く訳も無く。
『パートナーは、私です』
『マサだけ狡いっ。俺も曲書いてもらうっ』
『ああっ。僕もですっ』
『お前…何したんだっ。一番信用出来た筈なのにっ』
『その手を使うのなら、俺にも考えがあるよ?』
周囲のメンバーから、多くの邪魔を真斗は受ける事に…なる。
 
それでも。
強く結ばれた二人の曲は、多くの場所で恋人たちを彩る一曲として、歩き出していく…。