現在、ニューヨークの映像博物館で開催されているイベント、First Look 2025に出展された日本の映画『ナミビアの砂漠』で、山中瑶子監督との単独インタビュー記事。私の記事です。
本作は、『あみこ』などの山中瑶子監督による青春ドラマで、何に対しても情熱を持てず行き場のない感情を抱える女性が、自分の居場所を求めてもがくさまを描いたもの。河合さん作品は、まだ数本しか見たことありませんが、マジでぶっ飛ばされました。既に、『あんのこと』で日本アカデミー賞主演女優賞を獲得したのも納得させられる演技でした。
主人公を『あんのこと』などの河合優実、彼女の恋人を『モダンかアナーキー』などの金子大地と『プロミスト・ランド』などの寛一郎が演じるほか、新谷ゆづみ、中島歩、唐田えりか、渡辺真起子らが共演。第77回カンヌ国際映画祭の監督週間に出品され国際映画批評家連盟賞を受賞した。
こちらが、山中瑶子監督との単独インタビュー記事
Q : 映画『あみこ』から、オムニバス映画『21世紀の女の子』の一編「回転てん子とどりーむ母ちゃん」や短編の『魚座同志」など手掛けていますが、今作『ナミビアの砂漠』まで7年経っているのですが、この間に、映画に対する持っていた価値観の変化や映画に対するアプローチの変化があったのでしょうか?
山中遥子:そうですね、映画『あみこ』は本当に自主映画だったので、大学もろくに通わずに独学というか、本当に今思うと何もわかっていない状態で作っていました。基本的に昔の時代の監督たちは、やっぱどこの国でも基本的に独善的というか、今ほどスタッフとかキャストに対する人権意識みたいなことよりも、格好良い映像を取るためには、どんな能力も厭わないみたいな気持ちだったとい思います。
何かそういう彼らの本とか発言とかを見ていると、やはり映画監督というのは妥協してはならないから、その良いショットのためには何十テイクも撮影するものだみたいな考え方が、なんか(自分の中に)自然とあったんですけど、それを技術的には素人にも関わらず、映画『あみこ』のときはかなり全てのカットがとは言いませんが、(撮影時は)ほとんど時間的には難しかったんですけど、たまに20、30テイクぐらいやったりしたこともあったんですね。
Q : キューブリックみたいで撮影してたんですね。
山中遥子:それは志だけ真似してみるみたいなことでした。 でもそれは、結局本当に何もわかっていなかったので、見様見真似でやっていって、その後、編集など全てのテイク見たときに、結局最初の(テイク)方が良かったりすることに自分で気づいたりして、そんな見よう見まねでやっていたところから、『ナミビアの砂漠』では明確に独裁者的に監督が振舞って、スタッフやキャストに自分のビジョンのためについてきてもらうみたいな考え方は、「すごく自分にも合っていないな」という風に感じる7年間でした。かなりそういう現場での欲しいに絵(映像)に対するアプローチみたいなものは、かなり真逆に変化したところはあると思います。もう、2、3テイクで済むように事前に自分で考えて望むし、スタッフとキャストとの事前のコミュニケーションとかも、現場で全員に負担がないように考えるようになってましたね。
Q : 今作の冒頭部分は、キューブリックの映画『バリー・リンドン』を彷彿させるワイドなロングショットのズームインから入っていて、すごく興味深いと思ったんですけれど、そういった影響などの部分からいろいろお話聞きたいんですけど、今作は作家、金原ひとみさんの作品から強い影響を受けているそうですが、具体的に金原さんの作品のどんな部分に魅力を感じ、今作に反映されているのか?
山中 瑶子:そうですね、明確にこの映画『ナミビアの砂漠』で影響を受けたのは、彼女の「軽薄」という作品と、あとは初期の作品「オートフィクション」とか、「アッシュベイビー」、「星へ落ちる」などの4作で、特に「軽薄」に3角関係みたいなものがあった時に、その加害者と被害者と世間ではみて取れるような関係性に身を置いている二人がいて、金原さんの小説を読んでいると、そういう加害者性とか被害者性っていうには抑えめきれない、枠組みに入りきらないような、何かその当人たち、本人たちにとってしかないような真実が書かれているなと思って、主にそういうところの影響が、今作『ナミビアの砂漠』ではすごく影響を受けてると思います。
Q : 河合さんの演技を見ていて驚かされたのは、様々な場所とか人の対面において、声色とか発声の違いをシーンごとすごく感じさせられました。 そんな河合さんを当て書きで今回の脚本を書いたそうなんですけど、具体的に彼女のどういったところに魅力を見出して、脚本を書き始めたんでしょうか?
山中 瑶子:そうですね。私も本当に河合さんの作品を見れるものは、ほとんど見てたんですけど、私が キャスティングするまでに、(その時点では)河合さんはまだ主演作はなかったんですが、かなり多くの映画やドラマに既に出演されていました。ワンシーンしかないようなものも、多かったんですけど、河合さんが出てくると、やっぱりどの映画を見ていても、何だこの子はっていう風に意識が、みんなフォーカスされてしまうほど目を引きますしでも、それは(他の女優だと)全体のトーンに比べて、悪目立ちしてしまうこともあると思うんですよ、いくら魅力的でも。でも彼女の場合、そうではなくて、かなり映画の世界に馴染み良く居ることができる人だなと思っていました。でもやっぱり、どうしても際立っているなっていうことは毎回思っていたから、主演にしてしまえば、ずっと見ていたいと思う人だから、ずっと見ていられるのは主役だなっていうそういう感じです。
Q:河合優実さん演じるカナは、特になんか情熱と持っていたり、目標もあるわけではないけれど、どこか感覚を大切に生きているように思えました。もちろん、ある程度は、脚本に書かれた主人公が、自身を多少投影した部分はあるかもしれませんが、山中さん自身のこのかなに似た部分はあるのでしょうか?映画『あみこ』からこの映画を作る過程において、何かすごく価値観や見方、あるいは感覚みたいなものの大きな変化があったのでしょうか?
山中 瑶子:いえ、映画『あみこ』から自分自身の感覚が何か変わって、それが作品に影響があるのかっていうことは、自分ではわからないんですけど、kanaというキャラクターを考えているときに、考えていたこととして、東京という情報量も質量も世界のどの都市と比べても圧倒的に多い場所で、急に20歳前後の独り立ちしたような年齢の人が暮らすには、かなり物事の過ぎ去るスピードも速いですし、何かその時々で自分の感じている感情とか、感覚とかにその都度認識するのがすごく難しかったなと振り返った時にすごく思いました。
自分のその時々の感覚を見つめたり、振り返ったりするような余裕もなく日々の生活がすごい迫ってくるような感じがあって、その感覚とか感情ないがしろにしてきてしまうと、20歳後半ぐらいになって、私がこの『ナミビアの砂漠』を書き始めた頃ぐらいになって、ものすごくその当時の感情に向き合わなかったツケみたいなのが回ってきたという感覚がありました。そんな感覚があるなっていうのを考えながら、脚本を書いていましたね。だから「もっと大事にしたかった感情や感覚っていうのが、当時あったのにな」ということを考えたりしていました。
Q : 今作ではワイドショット、ズーム、手持ちカメラの撮影シーンなども結構あるんですけど、観客が主人公の価値観や感覚に浮遊したような感覚で想像しながら見ている感覚にさせられたんですよね。撮影する上で、どういったこだわりのカット割りをしていたのでしょうか?
山中 瑶子:そうですね、映画の後半になるにつれて、カナが自分のことを理解したいという風に映画の中で思い始めると思うんですけど、それに向かって撮影を構築していて、前半部分のかなりカナが、自分の気持ちや衝動に身を任せて行動したりしている時には、カナの体もよく動きますし、あちこち移動も多いので、それをこう捉えるときに、まず手持ちカメラ撮影を採用したのは、機動力高くすぐにパット撮影を終えるというところからそうしました。そこから後半のかなが少し内面的な世界に入っていくにつれてフィックスの絵(画角)を増やしていき、最後には完全に引きのフィックスで、2人の取っ組み合いの喧嘩をこう捉えていくという風に構成してましたね。
なので、観客がに対して共感して欲しい、むしろして欲しくないかみたいなことで言うと、そもそもどういう映画を自分が作るにしても、あんまり共感が大事なわけでもなかったりするんです。はい、今回その手持ちから固定撮影に行っている理由としては、そういうことになります。
Q: 劇中に「日本は少子化と貧困で終わっていく」という台詞がありました。これは、まだ若い山中さんがさらに若い20代や10代の目線から感じ取った台詞なのでしょうか?
山中 瑶子:でも、「少子化と貧困で終わっていく」という台詞自体は、実は私が思いついた台詞ではなくて、別の人が言っていたのを聞いて、 すごいこと言うなと思って、でも確かにそうだなと私も思ったんです。それは、すごく面白い台詞だなと思って使わせてもらったんですけど、でも劇中でも実はわかりにくいんですけど、冒頭のカフェのシーンで、ノーパンしゃぶしゃぶの話をしてる大学生たちがいて、実は彼らがあのセリフを言っていたんですよね。それをカナは実は聞いていて、それを真似して言っているだけで、かな自身の言葉ではなかったりするんですよね。
なので、そのセリフだけに関して言えば、私よりも下の世代の子たちも、もちろん感じていることだとは思うんですけど、もうちょっと私と同じ世代ぐらいの方が、そのセリフの内容に関しては、ずっと感じてたきたことだったりもすると思います。
ただ、そういう若者に対するメッセージみたいなことで言うと、私もまだ20代ですけど、私より下の世代の子たちの方が、いろいろどんどん不安な情勢になってくだろうなっていうのは、皆さんのお話を聞いててすごく思っていました。そういう世界が不安定なときに、自分の人生もかなり守りに入ってしまうというか、あんまり自分のことを優先しない人が増えたなっていうのは、ちょっと心配に思ったりしていたかもしれません。
Q : 今作で、寛一郎さん演じたホンダという役柄は、ろくにかなと喧嘩もできないような男だったり、一方そのハヤシの方は過去に女の人を妊娠させておろさせても、何も悪びれないような感じの人だったりと、映画内では一見、かながすごく破天荒に見えるんですけど、どこかこの世界に何か不条理みたいな部分もあったり、そういったものに対してすごく抵抗している感覚を受けたんですね。それは山中さんの中にも、その現代を生きるうえで、どこから不条理であったり、生きづらい社会だっていうものを感じる感覚みたいなものがあったのでしょうか?
山中 瑶子:そうですね、それはもう明確にありますね。 いつの時代にも、戦争なり、諍(いさか)いはあるみたいなことを言う人もいっぱいいますけど。 そんなこと言われても、今生きている人たちの今感じている理不尽なこととか、生きづらさが別に無になるわけではないので、今の世界のにも理不尽があると思っているし、だから私は一貫して、カナがおかしいのではなく、世界がおかしいんじゃないか?という風に思っています。
Q: 映画内では突発的というか、脚本に事前に書かれていたのかわからないですけれど、ハヤシとカナが一緒に小便するシーンとか、取っ組み合いの喧嘩なんかもそうですが、実際にその現場では脚本以外にも、俳優の河合さん、金子さん、寛一郎さんから、それぞれ即興的な部分で加えられた部分っていうのは、映画内に結構あるんでしょうか?
山中 瑶子 : 小さな仕草とかを反映させたり、俳優が自分で考えてやってくれることありますけど、基本的に私はあんまり(即興的な)セリフとか、アドリブを好まないので、何か自分が即興的に思いついたことだったら取り入れたりはするんですが、概ね脚本通りですね。当日でも、脚本を書き換えたりして、配ることは何回もありました。
Q : 今回、カンヌ映画祭に今作出演されて、まだ20代でカンヌ映画祭を経験するってことはすごく貴重な体験だと思うんですけど、マーケティングなど、どういった部分を学ばれて、何か今後の映画作りに反映していきたい思っていますか?
山中 瑶子 : そうですね、カンヌ映画祭は本当にマーケットやビジネスの面が、すごく他の映画祭よりも感じましたね。 観客のための映画祭というよりは、映画を映画人たちに見てもらって、どのように広めていくかみたいなそういう場所なんだとは、聞いてはいたんですけど、行ってみたらそこを強く感じました。もちろん海外と共同制作みたいなことが映画を豊かにするとも思います。でも私は映画を作る人なので、ビジネスのことに関しては、正直、プロデューサーが頑張って欲しいなって思いますね。(笑)私は、それ(製作者)は向いてないと思いますしね。自分が海外を意識して作っていくっていうのは、今までもこれからもあんまり変わらないと思いますけれど・・ 何か余計なことはあんまり考えたくないかなということですね。(笑)