昨日は久々にこびけんの後輩に出くわした。来週から日本を発つことになるから、しばらくは顔を合わすことはなくなるだけに、ありがたい偶然だった。

やっぱり彼と話をするときにはいつも話の抽象度が上がる。理系の人間と話をするときは大抵話が抽象的になる。

技術と政治の話、コンピュータの設計原理の話、質量保存やホメオスタシス、フィードバック構造の話など、それはもう多岐にわたる面白い話ができてまた一段と有意義な時間を過ごすことができた。


今回の記事のきっかけは彼との別れ際にちょろっと話したことにある。

自分「俺の話って大体いつも抽象的になりがちなんだよね」
後輩「というか、空想っぽいところがありますね」

というやりとりだ。そのやりとりをちょっと前に思い出し、「抽象的なことと空想的なことの違いってどう把握すればいいのだろうか」という疑問が生まれることになった。

内容のスケールに関していうのであれば、抽象的なことも空想的なことも大きなスケールを取り扱うことができる。抽象的なことの方はその言葉の定義上、小さなスケールの物事を扱うことはできないだろうけど、さしあたりここではその点については措くことにしようと思う。

二つの本質的な違いはなんだろう。

たぶんそれは、その考えを成り立たせる根拠があるかないか、あるいはその根拠がしっかりしたものであって、その考えの正当性、妥当性を立証するに十分なものかどうかにあると思う。

そしてさっきから読んでいる、『シャーロック・ホームズの記号論』という本に思わぬ形でヒントがあった。
そこでは具体的な個別の事象から一般的・普遍的な事柄を導き出す「帰納」という行為に関して、それと反対の行為としての「演繹」、そしてその両者と区別される形で提示される第三の知的行為としての「推論」が示される。

ホームズが相手の些細な特徴からその人間の特徴を見事に推理して見せるとき、ホームズ自身は「当て推量」を避けるべきものとして退けてはいるけれども、実際には純粋な帰納と演繹からは導き得ない帰結を得ていることから、そこには確かに無意識のうちに行う「当て推量」の作用が効いていることが指摘されている。

そして「当て推量」は、医者たちが患者の病状を診断する際に日常的に用いられるものであること、その理由は医学という分野がその本性において統計的に乏しいサンプル数を元に病状を診断しなければならないという事情に求められるとされる。


事実の集積とその抽象だけでは新しい事実は生まれることはない。それは演繹にしても同じだ。
新しい発見、新しい事実の解明にはいつも多かれ少なかれ「当て推量」ということが関わっているということ。

抽象的なことと空想的なことの間に何らかの優劣関係を設定しようというわけではないけれども、二つのことがらの間にはホントはすごく微妙な関係が確かな形で存在しているように思えてくる。

空想だけでは他者を説得することはできない。そうかといって純粋に抽象化だけでは新しい発見が得られない。
この持ちつ持たれつのような関係が大事なんだろうな、きっと。


はあ、今回の文章はひどいな、なんか。
バイト先は風通しが悪い。風が入るようにしても風が「流れて」いってる感じがない。

だから校舎の中には匂いがこもる。それが「いいにおい」なら問題ないんだけど、「悪いにおい」のときは気持ちも悪くなる。

そこで教室長はファブリーズを買った。ダウニーの香りは強力だ。そしてファブリーズを手にした自分は校舎の隅から隅まで「シュッシュシュッシュ」と吹きつけながら歩いて回った。
効果は抜群で、すぐに匂いは劇的に変わり、校舎にいた全ての人はボトル一本のファブリーズと引き換えに少しの幸せを手に入れた。

そのとき思った。「ああ、いいにおいは人をいくらか幸せな気持ちにしてくれるものだなあ。」と。幸せについて何時間も頭を悩ませているよりも、ただその時においしそうなビーフシチューの匂いがしたり、柔軟剤のいい香りがしたり、近くにいる人から香水のいい匂いがしてきたら、それだけで幸せになることだってある。そんなときに幸せを感じ取っているのは「」だ。

幸せ」という価値はとても感覚的なもので、それは頭で理解するものではなくて「感じる」ものだ。
実際、「幸せを理解した」なんていう言い方をすることはなくて、「幸せを感じた」と言う方が一般的だ。
とにかくそれは「感じる」ものだ。論理で理解するものじゃない。だから機械には「幸せ」が理解できない。

校舎を改善するためにこれまでいろいろなところに投資をしてきた。改善することを通して実現しようとしたのは、その場にいる人たち(講師、生徒、保護者の方々、そのほかの様々な訪問者など)の「幸せ」だった。

匂い(smell/scent/odor)」を通して実現する幸せが確かにあることを感じた。鼻という器官が生まれた理由は「幸せを感じるため」ではもちろんない。それは生物の生存競争に「匂いを感じること」が必要だったからだ。



校舎を後にして、自分と教室長は行きつけのラーメン屋でおなじみの「つけ麺(cold Chinese noodles)」を食べた。おとといも食べたけど、作ってる人が違うからチャーシューの味もつけ麺の固さもつけ麺のスープの味もいつもと違ってた。だから「いつものあの味」を求めて改めて昨日、店に入った。

同じ店に何度となく、しかも頻繁に通ってると、同じ店で作っていても人によって味が違うなんてことが分かるようになる。あの人の味はこう、この人の味はこう、みたいな。

マクドナルド(McDonalds)」は対照的だ。誰が創っても味は同じ。それがマニュアル化の意義であり、チェーン展開に必要なことでもある。全国どこにいっても同じ味。いつ作っても、誰が作っても同じ味。

まさしく「科学的な味(scientific taste)」だ。実験と同じだ。条件が同じなら結果は変わらない。「同質性(homogeneity)」と言い換えてもいい。
そしてそれがある意味、マクドナルドの価値ですらある。その科学的な味こそがマクドナルドを世界中に拡大させ、時代を超えて続く企業にした。

だからマクドナルドは本質的に機械化(automation)可能なんだ。その科学性ゆえに。


そのつけ麺の店は機械化できない。それはその店のつけ麺の味が科学的じゃないからだ。その味が「ローカルさ(locality)」と結び付いているからだと言ってもいい。ラーメン二郎も同じだ。店の名前は同じでも店舗によって味が違う。そしてそのことはそれぞれの店の価値につながっている。「それぞれの」ってところがマクドナルドとは違う点だ。「渋谷のマックはケチャップがやたら効いてて、新宿のマックはパテがやたらあぶらっこい」みたいなことはあってはならないんだ。「そんなのはマックらしくない」とさえ言える。

「幸せ」が「感覚(sense)」と分かちがたく結びついてるとき、それは「同質的な価値(homogeneous value)」から遠ざかる。それぞれの人が感じる「幸せ」は、まさにその人だからこそ感じることができるというところにその幸せの価値の源泉がある。
マクドナルドがうまくいってるのは、それが「そういうもの」としてすでに「感覚」的に浸透しているからだ。その浸透具合は価値の同質性の欠点を補って余りあるほどの価値を生み出すことができている。コカコーラも、吉野家の牛丼も、ナイキのスニーカーもiPhoneもその意味では同じ。だからそのどれも機械生産が可能だ。

でも機械生産が可能であるからこそ、生み出せない価値がある。たとえば大森駅の改札の横に。その店のつけ麺の味は人によって味が違う。それがその店のつけ麺の「価値」だ。「人間にしか出せない味」、もっと言うと「人間にしか作れないもの」を作ることによって成り立っている店なんだ。

その店に何度もやって来る客たちは意識的にせよ無意識的にせよ、あるいは多かれ少なかれそんなことを感じとっているだろう。

機械生産は人間よりはるかに大量な財の生産を可能にした。しかしそれが犠牲にしたものは「異質性」、「ローカル性」、そして何より「感覚」なんだと感じた夜だった。
均一化(同質化)と差別化(異質化)について考えた。

ビジネスの言葉では均一化は「コモディティー化」とも言われ、高付加価値化、あるいはブランディングの妨げになるものと位置付けられることが多い状態だ。 
有形財では機械を使った生産が中心になるから、その生産様式からの必然的な帰結としてコモディティー化に陥りやすい。

A:経済成長が「GDP(国内総生産)を増やすこと」
と定義され、
B:GDPとは「ある国において一年間に生産され取引の対象となった付加価値の合計」
と定義されるということから、

C:「付加価値を増やすことが経済を成長させるための重要な行動だ
という言明が導ける。

機械の生産が中心の有形財よりも、人間によって生産される無形財の方が付加価値は高くなりやすい。

だから経済の中で生産される財の中心が有形財から無形財(サービス)に移ったことは必然だ。
脱コモディティー化」という言葉がよく使われるけれども、機械による生産を行う限り、本質的に同質化は避けられない。
そもそもミスなく安定的なクオリティーの財を大量に生産することを目標に生まれたのが機械だからだ。
もちろんここでの「脱コモディティー化」とは、他者の製品と比べての話ではあるけど、機械によって生産された製品は国際展開するときにどこでも同じように機能するための「標準規格」が求められやすい。

だから必然的に、どの企業の製品も、その供給の規模を拡大させるにつれて標準規格に沿うようになり、同質化していくことになる。
あるいはボーン・グローバル企業ならば初めから国際規格を意識して生産を始めるから、同質化はもっと早い段階から顕著な形で現れることになる。

一方で有形財であっても、ひとつひとつ人間の手によって作られた製品は、同質化の程度は低く、スーツやかばんなどで採用されることの多いオーダーメイドはもっとも同質化から遠い有形財だ。

でも有形財は人の手で生産しようとすると規模の拡大には限界があるから、機械生産に敵わず、価格を引き上げることによって生き残りをかけるようになる。

一方で無形財は基本的には人の手による生産が中心で高付加価値化が比較的容易であり、なおかつ多くの人に同時に消費してもらうことが原理的に可能だ。それは学校の講義やセミナーだけでなく、ソフトウェアなどの情報関連の無形財についてもあてはまる。

サービスは相手に応じて内容を変えることも比較的容易だ。

貿易の理論における比較優位の概念は企業間の競争においてもその威力を発揮するけれども、あれは同質財について妥当する話であって、異質財に当てはまるものではない。

同質化は規模の拡大が簡単な一方で、技術進歩の有無によらず価格の低下をもたらしやすい。
差別化は規模の拡大が困難な一方で、価格は比較的高い水準で安定しやすい。

機械が人の仕事を奪う」というのは、その後に生じやすい低価格化という現象を通じて、一人当たりの所得水準を下げる方向に働くのではないか。

仮に一国全体の所得(GNP)水準が上昇しても、一人あたりの所得がそれに伴って上昇していなかったら意味がない。機械が高給取りになって発展する経済では人間が置いてけぼりをくうばかりだ。

機械による高付加価値化は難しいということ、GDPの増加というのは高付加価値化の促進という、人間の得意な行為を通してなされるものであるということを再認識し、「脱所有」とか「成熟」という形容に甘んじることなく、先進国における低成長を脱する活路を「人間中心の生産様式」に求める時期が来ていると感じる。
次から次へと出てきては人々をその中心へ向かわせる力をもつ、流行ブーム

夏ならさわやかなマリン・コーデ。冬なら今期はモノクロのIライン。
色、素材感、シルエット、組み合わせ方など、流行を構成する要素はさまざまだ。その個々の要素の組み合わせ方、特に強調される要素の移り変わり、新しい組み合わせ方、捉え方の中で流行は広まっていく。

それが一番明確な形で意識される分野はファッションだろう。毎年毎年、流行のスタイルは変わる。

でも一方で、流行を追いかけていて気がつくことがある。それは流行はアレンジとともに繰り返されるということだ。
5年前に流行ったスタイル、80年代後半に流行ったスタイル、海外で流行ったスタイルなど、それは地理的、時間的な隔たりを通して他の地域・時代の流行として使いまわされるようなことがよくある。

いや、あえて言うならばその様にして流行が生まれる側面が確かにある。

それは「移り変わるもの」、「移ろいゆくもの」、あるいは「絶えず変化を続けるもの」としての「流行」がもつ、逆説的な性質だ。

言い換えるなら、「移りゆくもの」の生みの親は「変わらない価値をもつもの」であるという逆説性をはらんだものとしてファッションなどの流行を捉えることができる。

流行が次々と新しく生まれる一方で、「昔ながらの手堅い格好」として「コンサバ」がある。

でも「流行」を取り入れる人の数と、「コンサバ」を取り入れる人の数を比べると、皮肉なことに「流行」を意識してる人の方が多数派だという現実がある。
それはある意味で、流行の方が相対的な意味で普遍性をより大きくもっていることの証左と考えられないだろうか。

変わらないもの、ほぼ確実にウケるものとして取り入れられる「コンサバ」が、実はその反対にあると考えられているところの「流行」よりも特殊なものであるという実態。

そういう意味では「流行はコンサバ以上にコンサバらしく、コンサバは流行以上に流行らしい」と言えるのではないだろうか。

変化させること、次々と新しいものを生み出していくことによって、その中から変わらない価値が生まれるようなプロセスとしての流行

変化しないことによって、一定以上の普遍性を獲得できないという皮肉を抱えるコンサバ

万物は流転するとか、諸行無常とか、古今東西にいろんな表現をもって「移ろいゆくもの」が形容されてきた。そしてそれこそが人間社会、世界の真実だみたいな解釈がなされてきた。

ファッションという流行の一形式を通して、こうした「無常」に対して新しい光を当てることができるかもしれない。

それは無常であることによって普遍性を獲得していくという逆説性、普遍性を獲得したと信じ、それをかたくなに守ることによって普遍性が損なわれるというアイロニー。


流行って面白い。


馬から蒸気機関車、自動車、電車、飛行機と、交通機関の発展によって人間が移動する方法はより幅広くなった、それぞれの交通手段は互いに代替関係にあり、利用時間の短縮化を通じて人間の生活において効率化をもたらしている。

今のところ、後に出るものほど、移動にかかる費用が高いという傾向があるのは、後に出るものほど技術的な水準が高いせいだろう。

交通機関の発達の歴史を振り返ると、それぞれの交通機関の誕生が物理学の発達と分かちがたく結びついていることがよくわかる。

ただ移動手段の多様化と効率化が進んでも、移動の必要性がそれに伴わない限りはその市場のパイは拡大しない。
もちろん効率化によってより安く海外に行けるようになったなら、海外旅行が増えるだろうって考えることもできるけど、海外旅行の必要性は今のところはほとんど娯楽として位置付けられてるのが実体だろうから、そのための時間のある時にしか利用されることはない。

新しいものが生み出されるためには、その前に学問的なブレイクスルーが必要になる。
でも新しくとれる資源の量がもうそろそろ限界って状況になると、「ものづくり」は「サービス」に置き換わる。

こうして経済は「サービス化」の流れに移行することになる。

サービス化のトレンドがずっと続いているのは、学問分野の研究成果が民間の経済活動に還元される割合が、以前に比べて減ってきているからではないか。
還元されてる分野ではサービスとも結びつきつつも、どちらかというと製品に近い形で新たな市場が生まれ、パイが拡大していく。
科学技術研究の方向が軍事に向かっているときには、産業の発展は軍事産業に集中する。
戦争が終われば軍事研究に注がれていた科学研究はそれに変わる新しい「稼ぎ口」を求めて「金融」へと軸を移した。

そうして金融業が発展することになった。

現在のところ、科学技術の研究のうち、民間の活動と密接に結びついている印象が強いのは発電技術エネルギー産業
情報技術(IT)の研究も進んではいるけど、基本的には技術が還元されているというよりはアイデア勝負というトレンドの方が支配的な実情を見ていると、やっぱり限界というかうまく活用しきれていないんだろうなという感じを受ける。

物理学の動向を追ってると、次にどの産業が発展することになりそうなのか、大まかな予測ができる。

かなり雑な文章だし、正確さを欠くところも多いけど、とりあえず備忘録的に書いてみた。