大動脈解離全般についてまだよく理解できていない段階で、メルクマニュアルの解説を読んで余命データにぼう然としていた頃、毎晩、公園を歩きながら自分の死について考えた(実は、これが実にいいかげんな余命データなのだが、当時それには全く気付かなかった)。

今まで、自分の死についてのイメージは何も持っていなかった。
死因は、交通事故、ガン、自殺?
生物なので、いつかは死亡する。
そう、いつかは死ぬのだ。
問題は、死ぬときに、納得できるかどうか、だろうか?
あるいは、苦しくないかとか、そういうのが気になるのだろうか?

人生の目標のように、死に方を決めて今後生きてゆくなんて人は多分いないだろう。
この先いつになるか不明だが、自分ではいつかは大動脈解離が突然悪化して死ぬ、というイメージを持ってみることにした。
ガンが体のあちこちに転移して長い間苦しむよりも、苦しくないはずだ。
体内で大動脈の一部がピッと破裂して、空気が抜けてゆく風船のように、徐々に意識がなくなって死んでゆく、というのも良いではないか、と思うことにした。
その方が、なぜか、安心に思えた。
死ぬのが怖い、と毎日おびえるよりはずっとましだ。
いつ死んでも良いように、悔いのない毎日を送ることが大切だと考えてみよう。

例えば、こういうことを考えてみてはどうだろうか。
私の場合には、自殺するのに、高いところから飛び降りたり、痛い思いをする必要は全くない。
死ぬ気で思いっきり走れば良いのだ。
なんて、健康的な自殺なんだ!(冗談)
(ただし、こういった冗談は、他人には全く通じないので、絶対に言わない方が良いだろう)

現状、私の場合、大がかりで危険な手術をして生き延びているといったようなものでは全然なく、運が良くて、単に薬を飲んで安静にしているだけだ。
今のところ、大がかりな手術は必要ない。
このまま、安静に生活できるように考えれば良いのだ。
ただ問題は、歩行が困難なことだけだ。
(もちろん、走ったり、重いものを持ち上げたり、といったことはできないが。)


「なぜ飯島愛の公式ブログはきちんと管理されているのか?」という記事を読んだ。
Business Media 誠 新連載・死とインターネット:
このアメーバブログでは、他界された飯島愛さんのブログがメンテナンスされて今でもちゃんと残っているとのこと。
ファンの書き込みも、まだあるらしい。
自分もアメーバブログに書いてみようと思ったのは、この記事がきっかけだ。
(飯島愛さんは、生前に一度だけ、大阪の某イベントでご本人を間近で見たことがある。さすが芸能人だけあって、話のテンポが良くておもしろかった。)

自分で作ったお墓のようだ。
ただし、土地もいらないし、維持費も不要だ。
死んでもこのように後に残るというのは、とても素晴らしいことではないかと思った。