8月は「命について考える」みたいなテーマの番組や投稿が増える月ですね。広島、長崎、そして終戦()という流れ。別の文脈としては日航機墜落事故でしょうか。先の大戦のことについては以前すこし触れましたが、軍部の暴走が要因でしょうか?日航123便についてはいろいろきな臭い話が多いです。闇は深いといった感じ。今回は別の話メインですがどうかお付き合いください。

 

 人は簡単に死ぬ、以前戦争経験者講話の中で耳にした言葉です。そのとき私は「凶器や兵器の前では人間は無力である」と解釈しました。しかしいまになって考え直してみるとすこし違った見え方あることに気づきます。人間を殺すのは武器や爆弾などだけではなく「権力」や「集団」たりうるという点です。ある国(連合)同士が戦争状態に陥ることに国民が加担しているでしょうか?国家総動員法はある意味当然のプロセスであり国民はあっという間に駆り出されます。これは、なんでしょう...?

 

 死をとらえると生が見えてきます。しかし生をとらえても死を見ることはできません。私は長い間低い自己肯定感と満たされない承認欲求に苛まれてきました。「無理をして生きて何を得られるのだろうか」「自分が生きているで周りに迷惑をかけてしまっているに違いない」と。ところがあるときから「死は他に選択肢のない場合の絶対的な終末でありそれを断つことは何人にもゆるされるものではない」と考えるようになりました。生と死は相関していないともいえるかもしれません。特に大きなきっかけはありませんでした。そのような思想の源泉となっているのは「積極的に生を享受したくはないが積極的に死にたくもない」という甘えなんですが笑

 

 生きることは苦痛です。ある人の痛みは他人には理解できません。できていると思ってもそれは傲慢でしょう。しかし周囲に完全な理解は必要ありません。しかしながらその苦痛に耐えかねる人も出てきます。もちろん不憫で残念だという気持ちはありますが私にその人たちのことは理解できません。さらには故人を悼む言葉を表向きにすることに強い違和感を覚えます。少なからずいる「積極的に死を追い求める人」に「死は魂・精神の救済」であり「生よりよい

」と錯覚させる危険性を孕んでいると考えるためです。前述のように生きている人に死を現実的に見ることはできません。しかしそれでもある種の逃げ場としての死を肯定してしまっていると捉えられかねないものは到底理解できません。

 

 「死ぬしかない人だっている」という主張は尤もだと思います。病や事故など受動的なものについて議論の余地はないと思いますが、能動的な死を肯定することはあってはならないことです。日本における法規制の問題もありますが少なくとも報道番組等でセンセーショナルに扱うことは禁止されているはずなのでそこに対する憤りや嫌悪感をぶちまけました。

 

 生は死を意識することを通してのみ見える。死を意識することは生の輪郭を明確にし好循環を生む。とはいえそのまま死への意識が強まることのほうが多いのが現実でしょうが。死は後ろ向きなものでしかない。それでは。