アンダーグラウンドブログ -324ページ目

【5月31日】1975年(昭50) 舞台裏は見せません!田淵幸一、右腕だけで打った本塁打

【阪神4-3大洋】左手首がバットを持っているだけで悲鳴を上げる。「何度も振れん。一発で仕留めないと…」。打席に立った阪神の主砲・田淵幸一捕手は、胸の内でそうつぶやいた。甲子園での大洋5回戦。7回1死、代打で登場。1点ビハインドの阪神。“ホームランアーチスト”がバットを担いで出てくると、“事情”をほとんど知らない虎党は同点弾を期待してボルテージが上がった。

 本塁打で同点。手負いとはいえここまで16本塁打。大洋・間柴富裕(後に茂有)投手にプレッシャーがかかった。内角高め、見逃せばボールだったかもしれないが、ビビって腕が振れていない分、球威がなかった。田淵のバットが反応した。

 快音を残した打球は左翼へ。中塚政幸左翼手がラッキーゾーンの金網に背をピタリとくっつけた。滞空時間の長い田淵独特の軌道を描いた打球は、中塚の頭上を越えた。17号同点ソロアーチ。阪神ファンの歓喜の渦の中、ダイヤモンドをゆっくりと1周した田淵。主砲の一撃がこの回の逆転劇を生んだ。

 正直なところホームランは田淵の頭の中では考えられなかった。「とにかくフルスイングで引っ張ることができない。当てることが精いっぱいだった。右腕1本で打ったホームランだね。よく飛んでくれた」。

 29日の中日8回戦で鈴木孝政投手の快速球を左手首に食らい、骨折こそしなかったものの痛みと腫れが残った。バットも振れず、捕手として捕球もままならない状態での値千金弾。土曜日でスタンドにはいつもより子供の姿が目立ったが、人気者田渕の代打本塁打は甲子園での野球観戦の何よりの思い出となった。

 「ブチ、子供たちがお前のバッティング見たがっとる。ゲームに出られんのなら、打撃練習くらい外で打てや」。試合前、山本哲也コーチが室内でマシーン相手に打ち込む背番号22に声をかけた。しかし、田淵はマシーンを止めようとしなかった。汗をぬぐいながら田淵は言った。「山本さん。勘弁して下さい。バットをまともに振れない痛々しい姿をファンに見せるのはかえって失礼ですよ。それより代打で出たら、必ず打ちますから」。田淵は舞台裏の苦労や努力はを見せず、ファンの前で最高の結果を出すことだけに集中した。

 翌6月1日の同じ大洋戦。さらに派手な花火が打ち上がった。大洋2点リードで迎えた9回、阪神は1死一、三塁の好機に途中出場の田淵に打順が回ってきた。カウント2-1と追い込んだ大洋の2番手・竹内広明投手。伊藤勲捕手は勝負球にストレートを要求した。十分にスイングできない今の状態に竹内の威力のある真っ直ぐなら打ち取れるという読みがあった。しかし、竹内は首を振った。選択したのは得意のカーブだった。

 そのカーブが肩口から入り甘くなった。これほど長打を呼ぶおいしいボールはない。左中間に飛んでいった打球を外野手はもう追わなかった。逆転サヨナラ3点本塁打。打球の行方をちらっと見ただけで確信した田渕は一塁線上で両腕を高く掲げ、両足でジャンプ。左手首の痛みはどこかへ消えていた。

 「滅多にないホームラン。最初にストライクを取ってきたので、勝負してくるなと思った。打ったのはカーブ。ストレートだったらあんなに飛ばなかっただろう。子供たちにも喜んでもらえた?そうだね。土曜、日曜と打ててよかった」。

 痛みをおしての2発。この年43本塁打の田淵は巨人・王貞治一塁手が13年君臨していたキングの座を10本差をつけて奪取した。

【5月30日】1961年(昭36) いつでも投げます 走ります!新人権藤博、早くも10勝目

【中日4-3阪神】3-3の同点で迎えた9回裏、1死一塁でカウント0-2。3球目、一塁走者は次の塁に向かって走った。打者は空振り、捕手は二塁へ送球。足から滑り込み、間一髪セーフ。サヨナラのお膳立てが出来上がった直後の4球目。打者は左前に安打を放った。前進守備にもかかわらず、勇気をもって本塁に突入した二塁走者は、砂煙をあげながら生還。会心のサヨナラ勝ちを収めた。

 サヨナラのホームを踏んだのは、弱冠22歳の新人、中日・権藤博投手。プロ野球界の名フレーズ「権藤、権藤、雨、権藤」と形容された伝説の投手の好リリーフと好走塁によってチームは3連敗を免れた。

 7回に3点差を同点にした中日・濃人渉監督は迷わずルーキー右腕を投入した。期待通り8、9回で2三振を奪い、きっちり3人ずつで封じた権藤。そして9回。延長戦をにらんで濃人監督は代打を送らなかった。阪神のエース、村山実投手の前に空振り三振をしたが、山本哲也捕手がこれを後逸。権藤は振り逃げで出塁した。

 吉沢岳男捕手への3球目。権藤は二塁へ走った。盗塁、ではなく濃人監督のサインはヒットエンドラン。吉沢が空振りしたため、権藤の走塁は結果的にスチールとなった。投手が走者、しかも虎の子のサヨナラのランナー…。もしけがでもしたら大変だし、この場面でのエンドラン自体考えにくい作戦だった。リスクを侵して権藤にサインを出したのは「村山から点を取るには積極的に揺さぶらないと連打は難しい。それにアイツの脚力を信頼していたから。そのへんの野手よりも速い」と濃人監督。作戦の是非はともかく、子供の頃から足がずば抜けて速かった権藤は、五輪三段跳びの金メダリスト・織田幹雄に「彼の脚力とバネがあれば五輪でメダルを取れる」と太鼓判を押されるほどだった。結果オーライ的な野球ではあったが、自らの足で白星を稼いだ権藤はこれでシーズン10勝目。リーグ最速の2ケタ勝利となった。

 キャッチフレーズそのままに、先発完投した翌日にリリーフ登板。その次もリリーフ、そして先発なんて“ローテーション”は当たり前だった。シーズンを通して巨人と激しい優勝争いを演じた中日は、来る日も来る日も権藤のか細い右腕に頼っていた。

 その典型的な例が8月27日から30日までの4試合。8月27日、甲子園での阪神17回戦(ダブルヘッダー第1試合)に先発した権藤は7安打2失点で完投、26勝目を挙げると、続く第2試合でも板東英二投手の後を受け、7回2死からリリーフ登板した。9回に味方が決勝の1点を入れ27勝目をマークした。移動日で1日空いたが、29日には後楽園での国鉄20回戦で2番手として登板。3回を投げて2点を奪われ敗戦投手となったが、30日の国鉄21回戦は先発で登板。金田正一投手と投げ合い、延長10回まで10安打を浴びたものの完投勝利を収めた。

 4試合連続責任投手となった権藤だが、これがシーズン中3回もあった。1年目で中日の全試合数130の半分以上の69試合に投げ、チーム勝利数71勝のほぼ半数の35勝(19敗)をマーク。優勝こそ逃したが、新人王はもちろん最多勝、最優秀防御率(1・70)、沢村賞にベストナインを獲得。最近では200イニング投げればエースといわれるが、権藤が記録した429回3分の1は今後破られる可能性が限りなく低い、不滅のプロ野球記録である。

 佐賀・鳥栖高卒業時に西鉄のテストに呼ばれ、三原脩監督の前で投げたが不合格。これで「絶対プロに入ってやる」と闘志に火がついた。大学に行ったつもりで社会人ブリヂストンタイヤで投げ、4年後は九州を代表する投手になった。巨人、中日の争奪戦となり、巨人優位も中日が逆転で獲得。当時ブリヂストンと福岡で都市対抗出場をかけてしのぎを削っていた日鉄二瀬の前監督だった濃人が60年から中日のコーチとなっていた人脈が最後にものを言った。

 同じ九州出身の西鉄・稲尾和久投手に憧れ「投球フォームから何気ない仕草までそのままそっくりまねた」(権藤)。稲尾よりも高い腕の位置から繰り出すストレートは「ドラゴンズ史上、一番真っ直ぐが速かった」と証言する関係者も少なくない。酷使によって実質現役2年、65勝の投手生活だったが、名投手コーチ、横浜38年ぶり日本一の指揮官として独特の指導法は球界でも一目置かれている。、

【5月29日】1994年(平6) “親分”大沢監督 7度目の退場!羽交い絞めされてもキック!

【ダイエー9-4日本ハム】還暦を過ぎてもなお意気軒昂。日本ハム・大沢啓二監督が通算7度目の退場を言い渡された。東京ドームでの日本ハム-ダイエー9回戦の6回、ダイエー・松永浩美三塁手の遊ゴロを一塁でセーフと判定されて激高。一塁側ベンチから62歳とは思えぬダッシュで飛び出し、牧野一塁塁審を両手で突いた。

 即刻「退場!」と宣告されても、簡単には引っ込まない。「この下手クソ!何だありゃ。どこ見てんだ!」と暴言を吐きながら、牧野塁審の左足を蹴り飛ばすと、こんどは右ストレートでパンチを見舞おうとした。が、コーチ陣に後から羽交い絞めにされ、身動きが取れない。それでも足をバタつかせて「コラ、待ちやがれ」と抵抗。顔面は紅潮していた。

 ダイエー戦5連敗中で負ければ最下位転落となる試合も終始ダイエーペース。判定にも頭にきたかもしれないが、“親分”は大事な局面を迎え、ひと芝居打った。監督が怒りを露にすることでチームの士気を高め、ムードを変える。ひと昔前の発想かもしれなかったが、大沢監督にとってはこれは必殺技。勝負をかけた“退場”だった。

 日本ハムは大沢監督退場直後の6回裏、4本の安打で4-4の同点に追いついた。指揮官の体を張った戦う姿勢にナインが燃え移り、意地をみせた形となった。試合は延長戦の末敗れたが、闘将の通算7度目、歴代2位タイ(当時)の退場は無意味ではなかった。

 神奈川商工高時代、夏の甲子園をかけた予選で、球審の判定で敗れたと感じた大沢投手は試合終了後、その審判をボコボコにしたという逸話が残っているが、立教大を経て南海入りした1954年(昭和29)から引退するまでの12年間、大沢は選手として1度も退場がない。記録はすべてコーチ・監督時代のものだ。

 初退場は66年7月24日、東京(現ロッテ)-東映(現日本ハム)16回戦。当時、東京の三塁コーチだった大沢は三塁線のバントがフェアかファウルかをめぐり、ファウルと反対されたことで三塁塁審に抗議。「オレは見ていた。フェアだ」との主張が受け入れられず、塁審を突き飛ばした。2度目は日本ハムの監督に就任した76年6月17日の阪急戦。相手投手の竹村一義投手に向かって一塁コーチスボックスからマウンドへ突進し、張り倒した。ビーンボールを2度投げたということで怒りが爆発しての大暴れだった。

 76年と83年には年に2度退場を宣告されている。「そりゃあ、暴力を振るうのは良くないことは分かってる。でも、抗議に行くとカッとなっちまんだな。口よりも先に手が出てしまう。気がつくと退場なんだ」と大沢。ただ、多分に演出の部分もある。「野球っていうのはボールを使ったケンカよ。ケンカはやられっぱなしじゃいけねえし、そんなのプロじゃねぇ。選手が下向いている時に、半分演技で怒ってみることはあった。選手をハッとさせて士気を高めるってやつだな」。

 不思議なことに大沢監督で日本ハムが優勝した81年や後期優勝した82年、快進撃をした93年は1度も退場劇がない。大沢は現役時代、考えられないような守備位置にいて打球を好捕し、何度もチームのピンチを救った名手だった。「自分なりのデータの蓄積もあるが、決め手は洞察力」と大沢はファインプレーの極意を説明するが、今やるべきかどうか、計算しながら“暴れていた”ようだ。“喝!”とばかり声を張り上げているだけの親分はないのである。