こんばんは、僕は子供好きな水泳オタクです。
夜分遅くに失礼いたします。皆さん、いかがお過ごしでしょうか。
最近はダブル台風の影響に伴って、僕の地域は、それほどの被害はなかったのですが、ここ1週間はずっと最寄りの電車が遅延していました。皆さんの地域は大丈夫でしょうか。今回の台風の被害に遭われた全ての皆様に、この場をお借りしてになりますが、復旧を心よりお祈り申し上げます。
今回の記事は、僕がバイトを通して、元々通っていたプールのコーチを始めてから、日々の指導の中で自分なりに考え続けてきたことを、できる限り丁寧に整理して書いてみたいと思います。テーマは「怒ることと叱ることの違い」、そして「妥協」についてです。
一見すると別々の話に見えるかもしれませんが、僕の中ではこの二つは深いところで繋がっています。むしろ、子供と向き合う指導という営みの中では、この二つを切り離して考えることはできないように感じています。今日は、その繋がりも含めて、自分の考えを正直に言葉にしてみたいと思います。
最初に、前提としてお伝えしておきたいことがあります。僕はスイミングコーチとして、まだ発展途上の人間です。社会人として正規雇用で長く働いた経験があるわけでもなく、就職活動でも思うようにいかない日々を経験しています。社会の厳しさや複雑さを、頭では理解しているつもりでも、実際にはまだ十分に知り切れていない部分がたくさんあると思います。学校の先生方や現場のコーチの方々が、どれほど多くの事情や責任の中で日々判断を重ねているのか、そのすべてを自分が理解できているとは到底言えません。だからこそ、これから書くことは、何かを断定したり、誰かを批判したりするためのものではありません。あくまで、一人の人間として、そして一人のコーチとして、子供たちと向き合う中で感じ、考え、悩み続けてきたことを整理した記録として読んでいただけたらと思っています。
まず、「怒る」と「叱る」の違いについてです。
この二つは日常の会話の中で同じように扱われることが多い言葉ですが、僕の中では本質的に別のものです。怒るとは、感情が先に立ち、その感情に引っぱられる形で言葉が出てしまう状態だと考えています。目の前で起きた出来事に対して、自分の苛立ち、焦り、失望、不安といったものがそのまま言葉になってしまう。そうなると、本来相手に伝えるべき内容よりも、自分の感情を外に出すことが優先されてしまいます。言葉は鋭くなり、必要以上に強くなり、時には本筋から外れていきます。結果として、伝えたかったはずのことがきちんと伝わらず、相手の心に残るのは「何が悪かったのか」ではなく、「怖かった」「否定された」「もう関わりたくない」といった感覚だけになることがあります。
それに対して叱るとは、感情をそのままぶつけることではなく、相手のために必要な言葉を、必要な形で届ける行為だと僕は考えています。もちろん、人間である以上、叱る場面で感情がまったく動かないわけではないと思います。しかし、少なくとも感情に支配された状態ではなく、目的を見失わず、相手が何を受け取るべきかを考えながら向き合うこと。それが叱るということの本質ではないかと思っています。叱るときに必要なのは、相手を打ち負かすことでも、言い負かすことでも、恐れさせることでもありません。その子が何を理解し、どこを修正し、どう成長していくべきかを見据えた上で、言葉を使うことです。つまり、怒るの中心にあるのは自分の感情であり、叱るの中心にあるのは相手の成長だということです。この違いは、似ているようでいて決定的だと感じています。
僕がこのことを考えるとき、よく頭の中で思い浮かべるのがジャグリングのイメージです。ジャグリングは、手の動きを絶えず調整しながら、複数の球を落とさずに回し続ける技術です。指導に置き換えるなら、球は子供たちであり、手の動きは指導者の関わり方です。子供は一人ひとり違いますし、同じ子であっても日によって状態はまったく異なります。体調が良い日もあれば悪い日もある。気分が軽い日もあれば沈んでいる日もある。学校でうまくいった日もあれば、家庭や友人関係で何かを抱えている日もある。集中できる日もあれば、どうしても落ち着けない日もある。そうした無数の変化の上に、その日のその子の姿があります。
指導者は、その変化を見ずに同じ動きだけを繰り返していては、本当にその子のためになる関わりはできません。声のかけ方も、求める強度も、待つ時間も、褒め方も、注意の仕方も、状況に応じて変え続ける必要があります。ただし、どれだけ手の動きを変えても、絶対に変えてはいけないものがあります。それが「球を落とさないこと」です。指導で言えば、その子をよりよい方向に導くという目的を見失わないことです。その日たまたま機嫌が悪いから、たまたま面倒だから、たまたまこちらが疲れているからという理由で、その目的を手放してはいけない。関わり方は変えても、目指すべき方向は変えてはならない。僕はそう考えています。
このジャグリングのイメージで考えると、怒るという行為は、球の動きを見失い、手の調整をやめてしまった状態に近いと思います。感情に任せて強い言葉を出した瞬間、指導者はその子の状態を読むことをやめ、自分の感情の処理を優先してしまいます。そうなると、言葉は相手のためのものではなくなります。球は落ちる。もちろん、その場では相手が黙るかもしれません。行動が止まるかもしれません。しかし、それは導けたのではなく、圧力によって一時的に動きを止めただけである場合も少なくありません。その子の中に理解が残らなければ、指導としては不十分です。
一方で、叱るというのは、球を落とさないために最後まで手を動かし続ける行為だと思います。その子が今どういう状態にあり、何が原因でその行動に至っているのかを見極める。そして、その上で何をどう伝えれば届くのかを考える。時には厳しい言葉が必要なこともあると思います。しかし、その厳しさが感情の噴出ではなく、目的に支えられたものであるならば、それは単なる強さではなく、責任のある言葉になります。叱るとは、相手のために言葉の使い方を最後まで考え抜くことだと、僕は感じています。
では、なぜ怒るということが起きるのか。僕は、それが特別に悪い人だけに起こるものではなく、むしろ非常に人間的な反応だと思っています。何度言っても同じことを繰り返される。危険なことをやめない。集中すべき場面でふざけ続ける。周囲に迷惑をかけてもその自覚が見えない。そういった場面で、心が揺れるのは自然なことです。指導者も人間ですから、疲れている日もあれば、余裕を失う日もあります。だから、「怒ってしまう感情が生まれること」自体を、単純に否定したいわけではありません。
ただ、その感情が生まれたときに、そのまま口に出すのか、一度立ち止まって整えるのかで、その後の結果は大きく変わると思っています。僕自身、叱る必要があると感じたときほど、すぐに言葉を出さないよう意識しています。呼吸を整える。何が問題なのかを頭の中で整理する。今、自分は相手のために話そうとしているのか、それとも自分の苛立ちをぶつけようとしているのかを見つめ直す。この一呼吸があるかないかで、言葉の質は驚くほど変わります。感情的な状態のまま発した言葉は、たとえ内容が正しくても、届き方を誤ります。逆に、落ち着いて整理された言葉は、強くなくても相手の中に残ることがあります。
叱ることには、もう一つ大事な前提があると思っています。それは、叱る目的が明確であることです。何のために叱るのか。何を理解してほしいのか。どこを直してほしいのか。今この場面で伝えるべきことは何なのか。この整理がないままの叱りは、外から見れば叱っているようでも、中身は怒りに近づいてしまいます。目的の曖昧な叱りは、相手を混乱させます。「結局、自分は何を直せばいいのか」「ただ嫌われただけなのか」と感じさせてしまえば、その言葉は成長の材料にはなりません。逆に、目的が明確な叱りは、たとえ厳しさを含んでいても、その子の進む方向を示すことができます。言葉は使い方次第で人を傷つけることもありますが、同時に人を守り、支え、立ち直らせることもできます。だからこそ、叱るときほど言葉に責任を持たなければならないと思っています。
今まで色々な子供たちを見てきましたが、これはあくまで自分の考えですが、感情は最低限のみで良く、もし仮に叱ったとしても、それに反抗する子供がいたら、保身どうこうではなく、その子供を正しい道へ向かうように目を覚まさせるために、力が伴うことは正当であると考えます。これは体罰がいいとかではなく、力と言葉を両方使った叱り方も手段としてはあるということです。
昔に俳優の菅田将暉さんが主演の高校を舞台としたドラマでは「言葉は、時には凶器としても鳴りうる」という言葉がありましたが、これを踏まえると、その子供が今の悪い道に行くかもしれない状況になりかねないどうこう問わず、悪いことをした際には言葉を「武器」として使い、やむを得ない時には力を使ってでも正しい道へ向かうために目を覚まさせなければならないと思います。バイトを通して、コーチになって何百人もの子供たちを教えてきた立場からすると、今の子供たちの立ち居振る舞いを見る限りでは、そう感じざるを得ない場面が少なくありません。
これらを踏まえると、繰り返しになりますが、事後において親からの何かしらの事柄が生じるのを恐れて、妥協を通して叱れないことは、その子供が今回の妥協に直接的でも間接的でもあろうと関係なく、その妥協のせいで、いつかどこかで悪い道に行き始めて、最悪の場合は犯罪者になって、その人の人生どころか、何もかもを潰すことになります。それを防ぐためには、それなりの叱りが欠かせないと思います。
次に、妥協についてです。
僕にとって妥協という言葉は、とても個人的な痛みと結びついています。僕は小学校から長い期間、いじめを受けてきました。小学校、中学校、そして大学に入ってからも、人との関わりの中で苦しさを抱える時間が続きました。ここで詳細を書くつもりはありませんが、その経験は、自分の考え方や物事への向き合い方に大きな影響を与えました。特に、自分自身に対して簡単に甘くすることへの強い抵抗感は、その中で形づくられたものだと思っています。周囲から見れば行き過ぎに見えるほど、自分に対して厳しくなり、妥協を許しにくくなった部分があります。
ただ、コーチとして子供たちと向き合う中で、僕は妥協という言葉にも二種類あるのだと考えるようになりました。
一つは、自分を楽にするための妥協です。もう一つは、その子のために必要な調整としての妥協、あるいは配慮です。この二つは同じ言葉で呼ばれていても、中身はまったく違います。
自分を楽にするための妥協とは、たとえば「今日はこのくらいでいいか」「1回だけうまくいったから十分か」「これ以上向き合うと時間も手間もかかるから、ここで終わりにしようか」といった判断です。もちろん、現場には時間の制約もあれば、全体を回さなければならない現実もあります。だから、どんな場面でも理想どおりにできるわけではないことは理解しています。それでも、指導者の心の中に「本当はもう少し向き合うべきだと分かっているけれど、自分が楽をしたいから線を引く」という気持ちがあるなら、その妥協は危ういものだと思います。その場では穏やかに終わるかもしれませんが、小さな見逃しや緩みが積み重なることで、その子が後になって壁にぶつかったときに支えを失うことがあります。
子供が苦しい場面で踏ん張れるかどうかは、日々の積み重ねによって大きく左右されると思います。目に見える成功だけではなく、途中で崩れそうになったときにもう一度整え直す力、できない自分と向き合う力、やめたくなる気持ちを抱えながらも続ける力。そうしたものは、一回の奇跡ではなく、毎日の関わりの中で少しずつ育っていくものです。だからこそ、その育ちを妨げるような安易な妥協はしたくありません。プールを好きでいてほしい、クラスが居場所であってほしい、そしてできるなら、自分が過去に感じたような孤立や無力感をその子には味わってほしくない。そう思うからこそ、僕は簡単には妥協したくないのです。
しかしその一方で、その子のためになる妥協、あるいは調整としての妥協は確かに存在すると感じています。たとえば、その日の様子を見て、明らかに心身の状態が良くない子がいるとします。体調が優れない、顔色が悪い、動きにいつもの力がない、気持ちが沈んでいる、何かを抱えているように見える。そういう日にまで、いつもとまったく同じ基準を機械的に当てはめ、「昨日もできたのだから今日もやるべきだ」と押し切ることが、本当にその子のためになるのか。僕は必ずしもそうは思いません。そこで必要なのは、基準を下げることそのものではなく、その子の状態を踏まえて、今できる最善を一緒に考えることだと思っています。今日はここまでにしよう、今日は量より質を大切にしよう、今日はまず水の中で安心して終われることを優先しよう。そうした判断は、甘やかしではなく、その子を長い目で見たときに守るための調整です。
ここでも、先ほどのジャグリングの話が重なります。球の動きが変われば、手の動きも変えなければなりません。大切なのは、手の動きを変えること自体ではなく、なぜ変えるのかという目的です。指導者が自分の都合で楽をするために変えるのか、それとも球を落とさないために最善を尽くして変えるのか。この違いは非常に大きいと思います。外から見れば、どちらも「今日は少し緩めた」という同じ行動に見えるかもしれません。しかし、その根拠が何にあるかで意味はまったく変わります。自分を守るための妥協なのか、その子を守るための調整なのか。この線引きを曖昧にしないことが、指導者の誠実さに繋がるのではないかと思っています。
そして僕は、「叱ること」と「妥協しないこと」は、深いところで結びついていると感じています。今の教育や指導の現場では、子供に対して必要な注意や叱りを入れることに難しさがある場面も少なくないと思います。親御さんとの関係、クレームへの不安、言葉の受け取られ方の難しさ、場の空気、組織としての方針。さまざまな事情の中で、叱るべき場面でも慎重にならざるを得ないことがあるのだと思います。子供が家に帰ってその日の出来事を話すとき、立場や表現力の違いから、事実がそのまま伝わらないこともあります。それ自体を責めることはできませんし、現場の方々が背負っているリスクや複雑さを軽く見たいわけでもありません。
それでもなお、僕は考えてしまいます。叱るべき場面で叱れないことが続いたとき、その子の成長にとって何が起こるのだろうかと。悪いことをしたときに、なぜそれがいけないのかを適切に伝えられなければ、その子は自分の行動を修正する機会を失います。もちろん、一度叱られないだけですべてが決まるわけではありません。しかし、小さな見逃しが繰り返されると、本人の中で「これくらいは大丈夫」という感覚が積み重なっていく可能性があります。そうして気づかないまま年齢を重ねると、後から修正することが難しくなることもあります。
今の教育方針、特に指導において悪いことをした子供たちに対する指導方法に不満が正直あります。子供が例えば叱られたことを親に言う際は、子供という立場や表現力など、やむをえない事情があるのが前提かつ重々承知していることですが、その伝え方から生じる「親からのクレーム、もっと簡単に言えば反発を恐れているからか、叱れない」を理由に、子供が悪いことをしたとしても、その叱り(指導)がないから、自分が悪いことをしていることに気づけず、全員が全員そうなるわけではないですが、そういったことで年齢的にも成長した際に、俗で言う悪の道、最悪の場合は大人になったときに、その妥協における経緯を起点に犯罪者になる可能性もあります。
とあるタイミングで叱らないといけない場面があった際に、自分からしたら、そんなやってみないと分からない結果におびえながら、自分を守ることだけを考えて、そういう理由を使いつつ、叱らないことは違うと思います。とあるタイミングで叱らないといけない場面があるのに、そういう理由や自分を保身するといった考えで正しい道から外れる状況になっている子供を正しい道に返さないのは、教育者どころか、その人の人生をつぶす、物理的ではないですが、その人の人生を潰す、もっときつく表現すれば、生きたまま殺す殺人者になるのと同じだと思っています。日本だけの話ですが、日本では子供は一定の年齢までは逮捕できないですが、その時の妥協が、その子供の未来を大きく変えることがあるから、自分は子供を叱る際には一旦落ち着いてからにしています。
だからこそ、叱るべき場面で叱ることは、その子を否定することではなく、その子の未来を守ることに繋がるのだと思います。ここで大事なのは、怒るのではなく叱るということです。感情をぶつけるのではなく、目的を持って向き合うこと。人格を傷つけるのではなく、行動の問題を明確にすること。恐怖で従わせるのではなく、理解によって立て直せるようにすること。そうであるならば、叱ることは決して排除されるべきものではなく、むしろ居場所を守るために必要な働きの一つになり得るのではないかと思います。
僕が指導で大切にしたいのは、厳しさそのものではありません。もっと言えば、結果だけを追いかけることでもありません。僕がいちばん大切にしたいのは、その子にとってクラスが居場所になることです。プールが安心できる場所であってほしい。水の中にいる時間が、ただ技術を学ぶだけの時間ではなく、自分を保てる時間であってほしい。できないことがあっても見捨てられない、うまくいかない日があっても戻ってこられる、そういう感覚を持てる場所であってほしいのです。
僕自身、学生時代に強い居場所のなさを感じながら過ごしてきたからこそ、この思いはとても強いです。人は、安心できる場所があるからこそ挑戦できます。失敗しても戻れる場所があるからこそ、もう一度やってみようと思えます。逆に、どこにも居場所がないと感じるとき、人は必要以上に自分を守るようになり、挑戦そのものが難しくなっていきます。だから、子供にとっての居場所を守るということは、単に優しくすることではないと思っています。本当の意味で居場所を守るには、その場がただ甘いだけでは足りません。安心があることと、何をしても許されることは違うからです。安心できる場であるためには、守るべき線や、人として身につけるべき感覚もまた必要になります。
その意味で、「怒らない。でも、妥協もしない。その子のために叱る」という姿勢は、僕にとって居場所を守るための姿勢でもあります。怒らないのは、自分の感情でその子の安心を壊したくないからです。妥協しないのは、その子の未来に対して無責任でいたくないからです。そして叱るのは、その子がよりよく育っていくために必要な場面で、見て見ぬふりをしたくないからです。この三つは別々ではなく、同じ根から出ているものだと感じています。
もちろん、現実は理想どおりにはいきません。自分自身、未熟さを痛感することは何度もあります。もっとよい言葉があったのではないか、あの場面では別の伝え方ができたのではないか、厳しさと配慮のバランスを本当に取り切れていたのか、振り返って悩むことは少なくありません。それでも、悩むということ自体が、子供と向き合う責任の一部なのかもしれないとも思います。正解が一つではないからこそ、毎回考え、整え、よりよい関わり方を探し続けるしかないのだと思います。
僕はまだ、社会を十分に知っているとは言えません。就職活動も思うように進まず、自分の未熟さや現実の厳しさを感じることも多くあります。だから、自分の言葉に限界があることも理解しているつもりです。それでも、子供たちと向き合ってきた時間の中で、自分なりに確かだと思えることが少しずつ見えてきました。それが、怒ることと叱ることは違うということ、妥協には避けるべきものと必要なものがあるということ、そしてその判断の中心には、常に「その子のためかどうか」がなければならないということです。
指導とは、技術を教えることだけでは終わらないと思っています。その子がこれから先、壁にぶつかったときにどう踏ん張るか、人とどう関わるか、自分をどう整えるか、そうした土台にも少しずつ関わっていくものだと思います。だからこそ、目の前の一回の練習、一つの声かけ、一度の叱り、一度の見守り、そのすべてに意味があります。大げさではなく、日々の小さな関わりの積み重ねが、その子の中に残っていくのだと思います。
これから先も、僕はきっと迷い続けると思います。怒らずにどう伝えるか、妥協せずにどう支えるか、その子のためになる厳しさとは何かを、簡単に言い切れる日は来ないかもしれません。それでも考え続けたいと思います。なぜなら、考えることをやめた瞬間に、指導はただの作業になってしまう気がするからです。子供は一人ひとり違い、その日ごとに違うからこそ、こちらも考えることをやめてはいけない。ジャグリングの手を止めてはいけない。目の前の球を落とさないために、これからも自分なりに手を動かし続けたいと思っています。
最後に、今の自分の答えをもう一度言葉にするなら、こうなります。子供のためを思うなら、感情に任せて怒ってはいけない。しかし同時に、その場しのぎの優しさや、自分を守るための妥協に流されてもいけない。必要なときには、その子の未来を思って、目的を持って、責任を持って叱る。その積み重ねの先にこそ、安心できる居場所と、踏ん張る力の両方が育っていくのだと、僕は信じています。
今日は、このあたりで失礼いたします。ここまで読んでくださり、ありがとうございました。