こんばんは、僕は子供好きな水泳オタクです。
夜分遅くに失礼いたします。皆さん、いかがお過ごしでしょうか。
今この記事を書いていた時、僕の自宅付近は大雨が降り、それに伴い雷も鳴っています。雨が降っているからか、今夜はいつもより涼しく快適です。
前回のブログにおきまして、誕生日前後に体調不良が続きましたが、すべて回復しました。特に辛かった喉の痛みですが、持病の喘息の症状でした。皆さんも体調には、ぜひお気を付けください。
前厄というのもあり、お祓いやお清めも兼ねてですが、GWが明けて少しした日に京都へ行ってきました。京都は京都でも午後からの日帰りであったので、京都駅付近にある西本願寺を訪問しました。
西本願寺を訪問した理由としましては、私事にはなりますが、直接このお寺ではないですが、この寺の納骨堂で僕の母親方の先祖代々、一番関わりがある方だと母親の叔父、つまりは僕の大叔父で祖母の弟、他にも母親の親族代々の遺骨が納められているからです。前厄であり、訪問を通して昨年はとんでもない心配をかけたことのお詫び、元気に過ごせていることの感謝、今の気持ちを伝えるために訪問しました。偶然にも中のお堂まで入ることができ、そこには阿弥陀仏があり、そこで正座し、拝みました。拝んだ後に出ようとした際に、まるでパワーをいただいたのか、親族の方たちが目の前にいるのだろうか、なぜか身体が動きませんでした。京都での短い時間ではありましたが、僕にとっては濃い時間でもありました。
そして先週の日曜日に家族で岡山県にある木山神社に行きました。
写真は記事に載せられる容量の関係で載せることができませんが、この神社は母親方の祖母ゆかりの神社で、僕が生まれる遥かに前から行き続けている神社だそうです。そこで、もう5月、もっと言えば2026年も半分ということもあるのでお神籤を引きました。結果は中吉で、結果の上に書いてあった内容はこうでした。
「春の淡雪が消えるように、憂いも悩みも消え去って、静かに花咲く季(時)が待たれます 真心は必ずや神様に通じます 倖せの時が訪れます 心身ともに清く正しく賭事色事に溺れると禍いあり」と書いていました。幸せ関係はわかりませんが、災い関係は今の生活にどんぴしゃりですね。
余談が多く長すぎて、大変申し訳ございません。ここから本題に入ります。
今日は、日々の生活の中で感じていることを、少し整理して書いておきたいと思います。今日は、タイトルにもあるように努力がテーマです。
皆さんの生活において、誰かの行動や生活などを見て、「あの人は何もしていない」と断言している人はいらっしゃいますか?おそらくですが、1人はいるだろうと思います。しかし、その断言はどこから来るのでしょうか。答えは単純で、自分の目に見えている範囲の情報だけを根拠にしているからです。見えていないものは、その人の認識の中に存在しない。ただ、それだけのことです。
ではでは、小学校の教室を思い浮かべてください。
毎回のテストで満点を取り続けている子がいるとします。放課後、他の子たちが校庭で遊んでいる時間、その子は静かに机に向かっています。遊んでいる子たちの視野には、その時間も空間も映っていません。見えないところで積み重ねているから、結果が出る。これは小学生の世界でも変わらない、努力の本質だと思っています。
その本質を、大人になっても理解できていない人がいます。他者の生活の一部分だけを切り取って、「何もしていない」と判断する。それは表面的な情報処理であり、物事の全体を見る力を持っていないということと、僕は同義だと思っています。小学生でも自然とやっていることが、できていないとすれば、それはどういうことなのか。
僕自身の状況に置き換えて言うならば、前回の記事でもあった数々いただいたメッセージの中で、「そんなんじゃ、社会に出たらすぐに病むよ」「社会性がないね」「自己中心的だね」「常識がないね」など、前回の記事に実態を打ち明けましたが、それでも、そういった表面的な判断の癖を持つ人が、社会という複雑な場でどれほど機能するかについては、率直なところ、疑問が残ります。
もう一つ、気になっていることがあります。
目に見える努力と、それに伴う評価は、確かに大きな価値があります。しかし、見える場所での努力と外部からの承認だけを積み重ねていくと、人はいつの間にか「評価されること」、言い換えると承認欲求を満たすことを目的にし始めます。
矢印が、自分の内側ではなく、外側へと向き続けるようになる。そうなると、努力の動機が他者の視線に依存していくため、見られていない場面では自然と力が抜けていきます。本人は気づかないまま、少しずつ、自分を廃れさせていく。外に向けた矢印のまま続けていく努力は、結果として自分に報いのない、空ぶったものになっていくと思っています。
対して、矢印を常に自分の内側に向けながら積み重ねている人には、ある共通点があります。他者を見下した言葉を使わない、ということです。挑発的な態度、侮辱を含んだ表現、顎を上げた姿勢で放たれる上から目線の助言。こういったものは、外に向けた矢印が生み出す副産物だと感じています。自分の軸がある人は、相手の立場に自然と寄り添います。意識的かどうかに関係なく、それが絶対条件として行動に滲み出ています。
僕はこの違いを、アルバイト先のスイミングでの日々の中で、常にではないにせよ、そういったコーチの立ち振る舞いを見続けてきました。同じ場所に立ちながら、矢印の向きが違うだけで、言葉の質も、人との関わり方も、まるで変わります。外に向けた矢印を持つ人ほど、声が大きく、態度が目立ち、他者への評価が辛辣です。その一方で、内側に向けて静かに積み重ねている人は、余計なことを言わない。それでいて、気づけば周囲との信頼関係が厚くなっている。
ここで、SNSでよく見かける言葉を一つ紹介したいと思います。アニメの登場人物の名言として広まっているもので、表現は多少調整しますが、こういった内容です。「努力するというのは、踏ん張ること、毎日すること、水に流すこと、そしてその姿は決して人には見せないこと」。
一見すると軽い言葉に思えるかもしれません。しかし、よく考えると、これほど努力の本質を的確に言い表した言葉はないと感じています。
踏ん張ることとは、成果が出るまで逃げずに耐え続けることです。結果が見えない中でも、その場に留まり続ける意志のことです。
毎日することとは、継続し続けることです。一度や二度やったことではなく、積み重ねの総量が本物を作るということです。
水に流すこととは、過程における道中の苦労や回り道をいつまでも引きずらないことです。過程はあくまでも参考であり、結果に向かうための通過点に過ぎない。
そして、その姿は決して人には見せないこと。これが、この言葉の核心だと思っています。見せないから、本物なのです。
見せようとする努力は、他者の視線を前提にしています。
しかし、誰も見ていない場所でも続けられる努力こそが、その人の本当の力になる。前述した「矢印を自分の内側に向ける」という話と、この言葉は完全に重なります。外に向けた矢印で積み重ねる努力は、見られなくなった瞬間に失速する。内側に向けた矢印で積み重ねる努力は、誰に見られていなくても止まらない。その差が、時間をかけて、人としての厚みの差になっていくのだと思っています。
お神籤に「真心は必ずや神様に通じます」とありました。真心とは、飾らず、見せず、ただ誠実に在り続けることだと、僕は解釈しています。矢印を自分の内側に向けながら、見えない場所でも積み重ねを続けることは、まさにその真心に通じるものではないかと感じています。神様に通じるほどの真心であれば、いつか人にも、社会にも、必ず届く。そう思うと、今の自分の積み重ねも、無駄ではないと信じることができます。
前回の記事にも書きましたが、今の毎日の生活についても触れておきます。今のアルバイトの業務においても、正社員登用を目指すために、やるべきことをやっています。ここ最近で感じているのは、従来より雑務が圧倒的に増えたことです。他にも沢山ありますが、アルバイト先で得た情報でもあるので、これ以上は差し控えさせていただきます。あくまでも自分の推測、憶測に過ぎませんが、忍耐力の育成を通して、色々と試されていると思っています。
今週の平日にそういったことがありましたが、自分で知恵を出して乗り越えることができました。ただ、久しぶりにストレスが限界に近づく感覚がありました。教採の不合格直後以来というくらいの感覚で、自分のキャパシティに限界を感じ、身体が悲鳴を上げましたため、ストレスケアの一環で外食してきました。
僕が本当に肉体的にも精神的にも追い込まれたとき、向かう先があります。神座です。ラーメンを食べると、悩みや苦痛が和らぐどころか、そのおいしさのあまり、そんなことで感情的になっていたのかと思えてきて、平常心が戻ってきます。ストレスケアとは、まさにこういうことだと思っています。僕はラーメンの中でも、神座が特別に好きです。今回いただいた小チャーシュー煮卵ラーメンが、やはり一番です。スープまで残さずいただきました。
前回の記事でも触れましたが、健康な身体が資源であることから週4回のウエイトトレーニングを続けており、トレーニングとアルバイトに使っていない時間は、資格勉強か水泳の指導研究にあてています。外から見れば自由に映るかもしれませんが、その時間の中身はすべて、何かに向けて使い続けています。
余談ですが、僕の生活の様子、特に筋トレのない日、バイトが休みの日における様子をGoogleのAIとして有名なGeminiに画像として作成してほしい旨を依頼すると、こういうのが出来ました。本当に休みの日全般は、ずっとこういう生活です。ちなみに、積み上がっている本は、AIの方からどういう研究をしているかを聞かれて、答えると本になっていました。
誰かに見せるためではない。評価されるためでもない。ただ、自分に矢印を向けながら、今日もコツコツと積み重ねていく。華やかさも余裕も何もない日々ですが、それが今の自分の現実であり、この現実の中でやれることをやり続けることに、自分なりの意味を見出しています。真心は必ずや神様に通じる。その言葉を胸に、謙虚に引き続き頑張っていきます。
今日は、この辺りで失礼いたします。



