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国際協力・NGO情報ブログ:別館

国際協力やNGOについて興味のある分野の情報をまとめています。

欧州委員会は、スーダン、ダルフール地方における人道危機救済に3100万ユーロを追加支援することを明らかにしたそうです。今年、同委員会は2億1500万ユーロを合計で拠出していているとのこと(詳しくはロイター@Yahoo!ニュースを参照してください)。

一昨年の2月末に紛争が始まって以来、160万人以上が難民となり、死者も7万人を越えています。8月終わりから9月にかけて、日本のマスコミでも多く扱われるときが一時的にありましたが、今は最早ほとんど扱われないようになりました。欧州では、来週ロンドンでアーティストの救済コンサートが開かれる(詳細は、こちらの朝日新聞記事を参照してください)など、まだまだ関心が高いです。それは、画像にもあるBand Aid20の発売(先月29日)によるところであることももちろん関係しているでしょうが…(ちなみに新しいこのCDには。1984年バージョンも収録されていますよ)。

ロンドンだろうが、日本だろうが、次から次に事件や問題が起こるのは変わらないと思いますが、日本ってあまりに「新しい物好き」じゃない?という気がします。それがいいところだと思えるところもたくさんあるんですけど、社会問題にはしぶとく付き合ってくれる人がたくさんいる方が力強いな、と思うのです。

そして、それを改めて思って、しぶとくスーダン情報を時々掲載します。昨日のブログに書いていた、「国際協力NGOに関わること」についてはまた日を改めて書きます。すみません。(でも、コメントやTBを頂いた方、ありがとうございます!)
今日もいつも通り事務所で仕事をしていたら、1本の電話がかかりました。僕は他の電話をしていたので、別のスタッフが取ったのですが、その電話は「NGOに就職したい」というものでした。「実際に、海外の現場に出て仕事をしたい」という電話。

実はこういう電話はよくかかってきます。夏休み前は特に多かったです。しかも大学4年生の方。「これまで国際協力活動やNGOの経験はありますか?」と伺うと、「ありません!」と断言されます。「じゃあ、どういう活動をしたいのですか?」と聞くと、「国際的な仕事をしたい」と答えます。なるほど、NGOというのは一般的には商社や政府系国際開発機関のような位置づけをされているわけですね。(その割には、イラクで人質になったNGOの人には冷たかったですねぇ。)

もちろん、大筋は間違っていないと思います。しかし、その電話を取っている僕も曲がりなりにもNGOスタッフであって、日本で地道に事務作業や広報作業を行っています。僕の場合は、ネットワークNGOというある種、特殊なNGOであるのは事実ですが、それでも所属団体のなかで、現地に職員をおいて活動しているNGOというのはほとんどありません。現地に行って活動する人というのはほんの一部です。

JICA(国際協力機構)のようにお金をもらって毎年数多くの若者やシニアが旅立つのはかなりの特例です。という以前に、もはや日本の「技術者」(そうでない人もJICAの青年海外協力隊などにはたくさんいますが)が海外で活動するというのは時代に反することなのだろうと思っています。行くとすれば、スペシャリストというよりもジェネラリスト、それもスペシャリストを経たジェネラリストだろうと思います。

少し前に「ワークショップ」のことを触れたブログで、「参加型」というものに触れましたが、途上国における援助のあり方は、その現地の人々がどれだけその事業に参加することができるか?ということが一番大事になります。現地にいる農業従事者や技術労働者、はたまやお役人さんも含めて、「そこに住む人」が考えてことをなすということが大切になります。もし、援助国からの支援が必要であるとすれば、それらをマネージメントできる能力を持った人、それも、農村開発であれば、農村開発の知識を持ちながら(スペシャリストでありながら)マネージメントできる人(全体を見れるジェネラリスト)こそが必要であるのだろうと思います。その人は同時にその事業のためにお金を集めてくる「営業」「ファンデーション」もできなければいけません。

たとえば、つい先日求人を出した、日本のNGOの老舗『シャンティ国際ボランティア会(SVA)』さんのホームページを見てみると、募集している「海外事業・企画調査課スタッフ」の業務(@カンボジア)はかなり広いです。

事業における計画立案や評価はもちろん、支援者への対応や現地を訪問する人の調整、講演や資金調達など、まさにすべてのNGO業務に目を配ることができる人でなければなりません。もちろん、同時にコンピューターのスキルに語学が必要とされます。しかも2か月後から即仕事ができるだけの経験もまた求められます。

「NGOで学ぶ」広い意味では多くの学ぶことが現場においてあるでしょうが、実際の仕事は既に『知っている』ものとして行わなければなりません。それが多くの会員の方に頂いた会費や寄付、募金、また助成団体からの助成を受けるNGOとしての責任でもあります。

「NGOで仕事がしたい!」とても僕たちにとっては嬉しいことです。しかし、経験がないとやはりどうしても難しいのが現実だと思います。では、そのためにどうしたらいいのか?ということを、次で考えてみたいと思います。また皆さんのご意見もお聞かせ下さい。
昨日に続いてフジテレビのバラエティ番組「あいのり」の話です。"ラブワゴン"に乗って世界中を男女数人が旅する中で恋愛が育まれるこの番組。現在、アフリカ東部エチオピアを旅行中というのは、前に書いた通り。アフリカの社会の現実に向き合って厳しいことをいわれながらも旅をする様子は、幸福な旅だなぁと改めて思ったりします。

その「あいのり」。アフリカに入った4月1日放送以降、「多くの問題で苦しむアフリカの人々への」支援として「あいのり募金」というものを始めています。11月28日までの約8か月で800万余りのお金が集まっているようです。これまで、幼稚園のグラウンド整備費やエイズ問題に取り組む団体の活動資金を得るためのパン焼き釜の購入、孤児院の毛布購入、小学校の校舎整備費や書籍購入、文房具購入費などに計100万円が使われています。

番組を見ると、実際に遊び場がなかったり、学校でも満足に勉強できるだけの設備や費用がなかったりする様子が映し出されます。それを見て、「募金ぐらいしよう」と思う人がいるというのは、正常だと思うし、いいことだと思うんです。前回の放送で、じゅん平が言っていた「俺らが出来る事」だとか「本当ちょっとの事でもいい」という言葉にも、またそうした事に否定的だったソルトの「綺麗事が私ホンマに嫌い」だとか「努力は続くんかな」なんて言葉にも合う、行為だと思います。手軽だし、かといって、クリックして他の誰か(企業)がお金を出すというだけでは味わえない「満足感」というものもあるのも事実でしょう。

一方で、この「あいのり基金」には気になる表現があります。「■はじめに」と題されたトップページには、募金されたお金が「100%アフリカの子供達と、アフリカの様々な問題に使われます」とあります。

確かに、以前、アフガニスタンへの援助を行う福岡のNGO、「ペシャワール会」に多くの寄付や募金が集まったりしたときに、会の中村代表がいわれていたのが、「われわれの団体は寄付・募金して頂いたお金の9割は現地での活動に使われる」ということでした。そして同時に、ユニセフなどの国際機関などの場合、現地に行くのは3割ほどであとは人件費や輸送費などで使われてしまうということでした。

実際、多くのNGOの活動で集められたお金は現地での活動に使われます。人件費などは他の事業でまかなわれたお金によって行われ(ただし現地で現地の人を雇うお金は入らない場合がほとんどだろうと思います)、なるべく現地にお金を落としてくるようにしています。そういう意味では、100%のお金がアフリカのために使われる「あいのり募金」はより望ましいのかもしれません。

しかし、この番組HPで語られるのは、そうした事ではありません。募金を集めるためのスタッフの人件費だとか、募金を届ける際の必要経費、また事後の確認などにお金がかからないのだということを強調します。しかし、よくよく考えてみると、フジテレビというのは立派な会社です。全員が給料をもらい、「仕事」として活動しています。そして、この番組を作るためにお金をスポンサーから手に入れています。これは、NGOの人たちが通常業務の中で「寄付・募金」を募る行動となんら変わりはありません。

また「現地での宿泊費、食費、交通費、通訳の費用などがかか」るとHPに書かれていますが、逆にいえば、それによって現地にお金を落としてくるという事もまた大切な事なのではないかなぁとか思ったりするのです。

募金を100%アフリカの人のために使いたいがために「ラブワゴンでアフリカを実際に旅し、色々な施設を訪れる「あいのり」だからできることかもしれません」と書くわけですが、実際に現地に事務所を作り援助を行うNGOもたくさんありますし、そのスタッフの給与はもちろん「寄付・募金」のなかから出すことは基本的にはないでしょう。またラブワゴンだけではなく多くのスタッフもまた行き来し、大手多国籍企業の航空機を利用し、番組は作られているのでしょうから。

にもかかわらず「通常の募金と違う」と一番最初から打ち出すというのは、どうなんだろうか?と思ってしまいます。某国での"ラブワゴン"の旅には現地のNGO関係者がコーディネーターとなっているという話を聞きました。だからこそ、アフリカでのような旅も可能なのかもしれません。しかし、その一方で、そうしたずっと活動を地道に続けているNGOなどが行う「募金」とは「違う」のだといわんばかりのこのシステムはなんだか変だなぁと思ってしまうのです。

たぶん、それはNGOの側がきちんと説明をできていない、もっといえばアピール・アドバタイズできていないというのもあるのでしょう。それはもっと勉強しなければいけないし、上手くやらないといけないとも思います。その一方で、そうした側面では「プロ」であるこうした人たちが、そんなNGOや団体と協力して行うことをもっともっと考えて欲しいし、できる人、やりたいと思っている人がどんどんと動ける自立的な社会になると思います。もちろん、お金は出せないけど…という人も、いろいろとできることをできる社会に。
このページもちょっとはポップな話題をというわけで、フジテレビの「あいのり
」(笑…なんだそれ!)。最近はよくこの番組を見ます。さすがテレビ番組だけあって、キャラの選定・組み合わせが良くできてますよね。

世界中を"ラブワゴン"に男女数人が「あいのり」して乗って渡り行く中で育まれる恋愛がこの番組のテーマ……ということは皆さんご存じの通り。韓国でスタートしたこの旅はアジアを経由しインドからトルコを通って欧州入り。その後、南米へ渡ってオセアニアを回って北米へ(なぜこのルートなんだろう?)。再びアジアに戻って今年の頭にスリランカからマダガスカルを経由して、アフリカ大陸の南アフリカへ到着。ボツワナ→ナミビア→マラウィ→タンザニア→ケニアと渡ってきて、現在はエチオピアの回を放映している。

上でさもこれまでずっと見てますよ!的な書き方をしてますが、実際に流れが分かる範囲で見ているのはアフリカ大陸にラブワゴンが乗ってから。なんだかアフリカが気になるのは、ここのブログでスーダンのことを書いているからと言うのもあるかもしれません。(ちなみに今やっているエチオピアの西隣、ケニアの北西隣にスーダンがあります。ラブワゴンは今まさにスーダンの隣国にいるのですね。)

アフリカの回に入って、「アフリカの貧困」というものに焦点が当てられることが多くなりました。とりわけ医療・教育関係にずっと焦点が当てられてきました。テレビで、しかもバラエティ番組の中でこれだけ社会問題を取り上げていくということは非常に大切だと思っています。しかし、反面、番組が行っている「あいのり募金」などが援助すること、それはとても大事だしいいことだと思うのですが、「モノ(金)を与えるだけでいいの?」と見ながらずっと思っていたのも事実です。(この募金については、ちょっと気になるので回を改めて書きますね。)

そして今日の回。今日はエチオピアの孤児院に訪れたメンバーはその「貧しさ」を知り言葉を失うわけです。「あ~、いつもと一緒かぁ。ここに募金を送るんでしょ?」と思っていたら、今回はちょっと違いました。孤児院の校長アベベック・ゴベナさんがクチにしたのは、単に「貧しい」というだけではなく、「飢餓はなぜ起こるのか?」という非常に根本的な問題でした。

「2003年イラク戦争犠牲になったアメリカ兵1,217人」「犠牲になったイラク民間人16,673人」というテロップに続けて出てきた数字が「1年間に飢餓が原因で死亡する人15,000,000人」というものでした。戦争という言葉が目立つ分、逆に例年のことで忘れがちな飢餓で死亡する人の数字。

僕は債務(ODAによって借金となったお金)問題に取り組むNGOに関わっていますが、これで言えば、1分間に13人の子どもの命が奪われていると言われます。これを年間に直すと673,920人です。こうした数字にはなぜか敏感ではないのがこの国のひとつの事実だと思います。

そしてそれらの背景にあるのは単にその国の政治・経済・社会的状況だけではなく、「構造的な問題」があるということが、この国のマスメディアや教育現場で大きく語られていないとどうしても思ってしまいます。メディアが見せる「貧困問題」が切り込む程度が極度に少ない。以前、イギリスで生活していたとき、普段の番組の中でこの「構造的な問題」にまで切り込む番組がそれなりにあったことを思い出してみると、悲しくなります。そしてそれが、現代のこの国の社会の貴重になっているのでしょう(単に『愛国心』というだけじゃどうにもならないわけです)。

さて、「あいのり」。孤児院のゴベナさんは『飢餓を作った張本人は貴方達日本人を含めた先進国の人間なのだ」とメンバーに向かってはっきりと言いきりました。そして70年代の『緑の革命』へと話は続きます。番組の中ではイラストを用いながらこの状況を説明しています(見ていない方は、詳しい説明は「あいのり」HPのこちらの今回の回のストーリーを読んで下さいね)。

最後に日本が輸入している穀物について番組では取り上げます。世界の穀物の10%を輸入している日本では2/3が家畜用の資料になっている現状。そして、霜降り和牛1キロを作るために8キロの穀物を食べさせている現状。これは確かになかなか知られていない現実かもしれません。僕は水問題に関心があるのでその観点から付け加えれば、日本は穀物を輸入する形で、世界中の水を輸入していることにもなります(『仮想水』と言います)。つまり、穀物、ここでは小麦で計算することにしますが、小麦を1キロ作るのに2キロの水が必要になります。つまり、穀物8キロということは小麦で換算すると16キロの水を輸入していることにもなります。和牛1キロを作るために16キロの、水が貴重なアフリカから輸入しているようなモノです。(もちろん乱暴な議論ですが、分かりやすく言えば。)

これを受けて、メンバーがどのような話をするか?ということに一番興味があったのですが(これも上のリンクから見れますので読んで下さい)、じゅん平の「自分たちにできることをやることが大切」という予想通りの答えに続いて、新しい参加者のソルトの「綺麗事が嫌い。簡単には自分も変わらない」というこれまた予想通りの答え。分かりやすいけど、日本人の多くはどうしても個々で止まってしまうと思う。

昨今の流行の田舎暮らしやスローフードもそうだけれど、それと同時にやっぱり国際機関や政府、地方自治体、企業などに「文句を言う」ということも考えなきゃいけないとどうしても思う。できる、できない以上に発想としてそういうモノがすぐに出てこないというのはもったいない。あとソルトの「綺麗事が嫌い」なんていう発想も他に代替案がないのにみんながクチにする一番聞いててむかつく言葉だな、とか思ったりします。「じゃあ、何するのさ!」ということで、いつの間にかじゅん平のような人間が悪人…というか格好悪くなってしまうのはやっぱりおかしい。

バラエティでこんなことを色々言うな!ってのもあると思うけど、メディアは常にどう受け取られるか?ということを考えて動いているはずだし、何よりも多くの人が見ているTVだからこそ、ここを基点に考えていくことができればいいな、と思ったりします。でも、「あいのり」はそのなかで今回の放送といい、見せる国際協力をしていると思いますよ。続きも是非みたいですね。

あ、もう長くなってきたので「あいのり募金」についてはまた今度。ちなみに、ヒデ、もっと頑張れよ!(笑)

◆画像は、世界の思考を大きく変えた1冊、敬愛するスーザン・ジョージさんの『なぜ世界の半分は飢えるのか?:食糧危機の構造』(朝日選書)。もう20年以上前の本ですが、まだまだ有効だと思います。
昨日のNGO福岡ネットワーク(FUNN)の講座「NGOカレッジ」の第3回目は前2回が講演主体の講座だったのに対して、時間の半分くらいは「ワークショップ」と呼ばれるものを行いました。この「ワークショップ」という言葉は、最近では徐々に広まってきた言葉だろうが、NGOやNPO以上にまだまだ一部の人にしか伝わらないかもしれないですね。

「ワークショップ」というのはなかなか説明するのが難しいんですが、学校の授業や講演のように一方的に考えや思い、知識や技術を伝えるのではなく、そこに集った参加者自身が主体となって作っていく場所のことです。今まさに皆さんが見ているインターネットや、テレビのデジタル放送などの視聴者参加型の番組などが増えてきていることから見ても、「参加体験型」の場所というのは増えてきているように思います。また「体験型」というだけあって、頭で考えたり言葉にすることだけではなく、体を使ったものなども多いですよね。(現代演劇や美術の分野においても昨今は多いですね。)

これは体験してみるとすごくよく分かるのですが、自分の考えというのがやはりどこかにはあるはずで、それを言葉や体で拙いながらに人に伝えようとすることで、寄り自分の中で物事が明瞭化されます。またさまざまな問題と向き合っても、より体感的に理解することができます。キーワードは「参加体験」というもの以外に(もちろんこれも「参加」と「体験」に分けて考えることが必要ですが)、「相互作用」というものがあげられると思いますが、これはそれゆえです。

しかしまだ日本ではこの「ワークショップ」的なものを苦手とする人が多くいます。NPO/NGOは「良かれ」と思って、こういう形式で行ったりしますが、まだまだ「話を聞いている」方が楽だ、と思う人も多いです。それはただすべきことでも悪いことでも何でもなく、そういう「参加」の方法をとることを求めていると、僕たちは理解すべきでしょう。

援助を行うにあたって、「参加型開発」などという言葉がよく使われます。そして、それはもやは政府などが行う中にも取り入れるように求めたりされます。そして報告書には現地で参加型のワークショップを開催し住民参加の上で行われたということが書かれます。しかし、それはある種の隠れ蓑になっているような気もします。そういう場所を作ればそれで「参加型」という理解は正しいものではないでしょう。

「参加をしない」という参加型の方法をとる人をどのように受けて考え実行することができるか?またそれをすることができる社会・仕組みが必要となるでしょう。例えば、「選挙に行かない」という判断を下すと、「なぜ行かないのか?」「行かなければ何も変わらないじゃないか!」ということを言われます。確かにその通りですが、それを糾弾するのは「行かない人」に対してではなく、「行かない人」のことを考えられる社会に対して行うべきです。そしてそれは糾弾する人もまた含まれますし、それに意識的であるかどうかを問わず「行かない人」もまたその中に含まれます。

今、アメリカやウクライナでの選挙のあり方が問われています。(アメリカのウクライナへの言い分が如何に笑えるかは、「暗いニュースリンク」記事を参照してください。)ここで問題とされているのは、投票された人間と社会のあり方です。両国で選挙に行かなかった/行けなかった人(というのが制度的にどれほどいるのか?ということの詳細は分からないのですが)は「ほら見ろ!」と思っているでしょう。

社会は、そうした「参加しない」人たちの意見を如何に採り入れることができるか?ということが改めて求められていると思います。それは単に制度的に「選挙」という選択で政治が行われ、社会が作られている以外に、どれだけ「批判的対話」が可能な場所を作り出せるか?ということが一番重要なことだと改めて思うのです。

「ワークショップ」もまた「参加しない人」の意見をどれだけ取り込めるか?ということに意識的であることが必要でしょうし、別の問題として、方法論だけで問題意識や取り組みのないものが最近徳に多いことは問題だなぁと思ったりします。