うらをみせ おもてをみせて ちるもみじ

江戸時代に活躍された禅宗の僧、良寛(りょうかん)さんの句です。
良寛さんは、「良寛和上」でもなく、「良寛上人」でもなく、親しみを込めて「良寛さん」なのですね。
寺院に住持せずに、非僧非俗の生活を営まれました。
権威とか肩書きの嫌いな方で、晩年近くには子供たちと屈託なく遊ばれていたようです。
この句は臨終を間近に詠まれたようで、モミジの散る様を自らの生涯と重ね合わせたのでありましょう。
さて人間の死に様に、良い死に方も悪い死に方もありませんよね。
というか、それ以前に「死に方」をとやかく言うのは第三者の傍観です。
金持ちであれば幸せに死ねるかというと、そんな保障はどこにもないのです。
  「死ね時節には 死ぬがよく候」 (同じく良寛さんの言葉)
いつ死ぬか、どのように死にたいか、そんなことを考えてみたってどうにもなりません。
大切なのは、今をどう生きるのか、ということではないでしょうか。
幼いころの親鸞聖人は、
  「明日ありとおもふ心のあだ桜 夜半(よわ)に嵐の吹かぬものかは」
という歌を残されました。
夜中に天台座主慈円和尚を訪ね、今から得度をしてくれと頼みにいった松若丸(親鸞聖人)は慈円和尚に
「坊や、もう遅いから明日来なさい」
と一旦断られました。
そのとき松若丸は
「今宵は美しい桜の花も夜中に突然春の嵐が来て散るかもしれませぬ。私の気持ちも明日になってどう変わるかはわからないから、すぐに剃髪出家して僧侶に)していただきたい。」
という歌を詠われたのです。
「今」「この場」のご縁を大切にする仏教精神が見事に表現されていますね。