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 授業で扱った題材である、「利他的」、「利己的」、心理的エゴイズムについて今回考察する。

 利他的、利己的たるものは、性善説、性悪説のように人間の内面を外部から評価または規律し、一般化、通説化した形容であると私は考えていた。人間の心情の機微を巧みに描くことは非常に難しいことであり、一個人まして自分の心のうちをも知り難いはずである。この事実に関わらず、利己的、利他的とはヒトとの気持ちの動きといった範疇でを一律に述べようとしている、どこか不自然な修飾語であると感じていた。この思考ルーチンが私の「利他的」、「利己的」についての考察がより成熟することを阻害していた。この授業は考察の動機となり、またいい契機になったと自負している。

 「利他的行動はすべて利己的行動である」というコンテクストについて扱いたい。

 上記一文はひどく違和感を与えるコンテクストである。利他的行動と利己的行動は相反する性質の行動であり、お互いに意味を内包しあう関係ではない。それなら利他的行動という言葉は必要なく、さらには自分の事を考えているから利己的行動である、という横暴な結論付けが予定されているような一文である。

 「利他的行動はすべて利己的行動である」を説明すると、人間は自分の利害を考えて行動しており、倫理的に、つまり慈善や慈悲によって行為できないということである。外観上利他的行動に見える場合においても、実際には自分の欲求の満足のためであったり、自己に似た解釈を共有する人を確認し、自分に類似する種の人間の利益が優先されるべきだという意識の元、行動しているのである。

 この説明の結論付けの特徴として、利他的な行動を真っ向から否定するのではなく、利己的な行動と理解する範囲を広げている面があげられる。つまり言い換えれば、利他的な行動の存在を認可してしまっているのである。利他的な行動の存在を信ずる者にとって都合のいいファクターである。

 しかし、「利他的行動はすべて利己的行動である」というコンテクストを覆すことは困難である。なぜなら、説明を覆すための反証がないからである。私の行為はまさに利他的な行動であったのだ、と主張しても、客観性を具備することはない主観性に偏った具体事例とみなされ、主張は立派な反証になることはない。

 そこで、反証がないということは主張の正しさを意味しているのだろうかと考える。確かに、反証がないという事実は反論の余地がなく、真実を語っているように思えるが、それはあくまで「説得力がある」だけであり、そのまま真実とはならない。たとえば、いかにも超人的な雰囲気を漂わせている占い師に、あなたの前世は鳥ですと告げられると己の中で反証がなく、もっともらしく聞こえるだろう。しかし、実際には前世など誰にもわからないため、確定的な真否は闇の中であり、占い師の宣告は正しいと言い切ることができない。したがって反証がないということは主張の正しさを意味している、とは言えない。

 思うに、利他的な行動は確かに存在すると解する。何より主張する理由として、私自身の願いでもあり、持論である。確かに人間には利益を計算して行動する一面を持ち合わせている。一見利他的な人間であるように思わせ、他人を騙し、利益を搾取しようとするものまで存在する。しかし、それは人間の意識が及ぶところまでの事実である。「無意識に動いていた」という言葉を聞くように、ヒトが無意識下にいるときに利他的な行動ができるのである。慈愛や慈善を考慮して動くというよりも、手や体が先に動いていた、その後に思い返せば慈善や慈愛があったと考えるほうが自然ではないか。轢かれそうになっている人に大声をかけたり、猫が道路に飛び出そうとするのを止めたり、と身近な例もある。「危ない」と叫ぶ際に、利益を考える者は存在しえるだろうか。

 よって、「利他的行動はすべて利己的行動である」とは言えず、利他的な行動は現実に存在し、利己的な行動と性質を相反していることが言える。