人生は愉快だ 池田晶子 | N field golf(エヌ フィールド ゴルフ)ブログ

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人生は愉快だ

著者 池田晶子

発行所 毎日新聞社

2008年11月1日第1刷発行

 
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猪名川町立図書館さんにてお借りして

 

読みたいところだけ読ませて頂きました。

 
 
 
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 道元
 
《かの薪、
灰となりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、
人の死ぬるのち、さらに生とならず。
しかあるを、生の死になるといはざるは、
仏法のさだまれるならひなり、このゆゑに不生といふ。
死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり、
このゆゑに不滅といふ。
生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり》(『正法眼蔵』)
 
 臨済録など読んだあとに、この人の著作を読むと、
その親切さが身にしみる。
非論理を身上とする禅の核心を、
あえて論理的に語ってみたいという欲求があったものだろうか。
 
 それにつけても、その文才である。
「不立文字」の禅の伝統から、
非凡な文才の人が時おり出現するのは、どうしたわけだろうか。
おそらくは、あらかじめ直観により把握された認識から、
逆向きに繰り出されてくる論理は、
それだけですでに迷いのない文体を構成する。
それは逆説が逆説として現われる構造でもあるから、
逆説を駆使して、逆説の出所を指示することもできる。
おおむね存在論、ときに認識論、しかしいずれにせよ
感傷的心情吐露とは無縁の緊密な文体は、
日本語による哲学の文章の最高峰ではなかろうか。
非論理であることにおいて詩に近かった中国禅を、
論理的散文として日本に根付かせたのが、この人の力である。
記憶に残り、暗んじやすいフレーズが、随所にある。
それらはたいてい逆説か同語反復であるが、
逆説は論理であり、同語反復は存在である。
哲学のレトリックは、必然的にこうなる。
 たとえば、引用の文章の前段には、
「前後ありといへども、前後際断せり」とある。
灰は薪に続くものではない、
続いているように見えるが、じつは続いていない。
時間は過ぎ去るもののように見えるが、じつはそうではない。
薪は薪であることにおいて薪以外ではなく、
灰は灰であることにおいて灰以外ではない。
あるけれどもない、ないけれどもある。
存在と時間とのパラドックスを端的に述べたフレーズとして、
出色である。
暗んじているだけでも、逆説が指示するその境地が腑に落ちる。
 薪と灰とは、生と死である。
薪が燃えて灰になるように、生に続いて死となるものだと、
人はなんとなく思っている。
そしてまたとくに通俗的仏教理解においては、
死に続いて生となるものだと、やはりなんとなく思っている。
しかし、「そうではない」と、この人は断言する。
生は生であることにおいて生以外ではなく、
死は死であることにおいて死以外ではない。
生と死とは連続するものではない、
両者の連続は、不連続の連続である。
 存在が存在することすなわち「現在」に徹すると、
当然こうとしか言えなくなる。
現在であることにおいて、
時間は過ぎ去ってなどいないからである。
そして全世界は現在において存在しているからである。
そして存在しているのは
「我」以外の何ものでもないからである。
《尽界にあらゆる尽有は、つらなりながら時々なり。
有事なるによりて吾有時なり》
 よって、松も時なり、竹も時なり。
山も時なり、海も時なり。
《いま右界に現成し、左方に現成する天王天衆、
いまもわが尽力する有時なり。(中略)
わがいま尽力経歴にあらざれば、
一法一物も現成することなし》
「我」こそが時の主宰者であると気がついた人には、
世界はこんなふうに見えるのだろう。
そのような世界とは、
すなわち世界そのものであって、
言わば世界が世界しているとでも言うべき事態であって、
我が世界を体験していると言う必要も理由もないようなものだ。
 これを「悟り」とこの人は言う。
とすると、悟りとは、存外に賑やかなものだということが、
この人の理屈によって知られる。
 これもまた「空」の裏返しであろう。
公案禅が決して説かないその部分、問答二行のその間隙に、
全世界がこのような仕方で存在しているということの、
理屈による開陳である。大変な饒舌である。
おかげで、大悟した人が見ている存在の光景を、
我々は知ることができる。
 ところで、「今さら」、生死とは何ぞや。
確かに、生死とは何ぞやを問うことが始まりであったはずなのに。
ひとたび生死の逆説的構造に気づいてしまうと、
思索はどうにも全方位底抜けの方向へ展開して、収拾がつかなくなる。
述べる論理もひたすら否定である。いわく
《一にあらざれども異にあらず、
異にあらざれども即にあらず、
即にあらざれども多にあらず。
このゆゑに、
生にも全機現の衆法あり、
死にも全機現の衆法あり。
生にあらず死にあらざるにも全機現あり。
全機現に生あり、死あり》
 生でもなく死でもないことにおいて、
生と死とは体験されるものであるとは、
文字通り語るに落ちているが、はたしてこれは、
何かを述べたことになっているのだろうか。
「無常迅速、生死事大」とは、
この人の名フレーズの中でも、一般向けの方である。
すぐ過ぎ去ってしまうことよりも、もっと大事なことを考えろ。
振り出しにして、上がりである。もしくはその逆。
 
   参考文献『現代訳正法眼蔵』
  (禅文化学院編、誠信書房、一九六八年)
 
 
 
 仏陀
 
《無無明。
亦無無明盡。
乃至無老死。
亦無老死盡。
無苦集滅道。
無智亦無得。
以無所得故。
菩提薩埵。
依般若波羅蜜多故。
心無罣礙。
無罣礙故
無有恐怖。
遠離(一切)顚倒夢想。
究竟涅槃。
三世諸佛。
依般若波羅蜜多故。》
(『般若心経』)
迷いはない。
ゆえに迷いがなくなるということもない。
老いと死はない。
ゆえに老いと死がなくなるということもない。
苦しみも、苦しみの原因も、
苦しみをなくすることも、
苦しみをなくする道もない。
知ることも得ることもない。
得るということがないのだから、
知恵は完成して心はからっぽ、
恐れがない。
転倒した思い込みを遙かに離れ、
菩薩は涅槃に入っているのである。

 と、お釈迦様は語ったと、

お経は語っている。

 はたして、本当だろうか。

 と、どうしてもそう考える。

およそこの「語られている」、

「言葉で語られている」というこのことに、

まず、我々は疑いをもつべきなのである。

 必要なのは疑いではなくて信心ではないのか。

人は言うかもしれない。逆である。

もし言葉で語られていることが、

そも言葉で語れないことであったなら、

言葉で語られている通りを信じ込むことこそ、

「顚倒夢想」なのである。

しかし、「語る」以上は、

人は「言葉で」語るしかない。

お釈迦様も大変だったのではなかろうか。

 考えてみたい。

この人の言葉は、全部が否定である。

「ない」「ない」

「あれではない」「これでもない」

「なんでもない」「なんにもない」

 そういう「絶対無」、すなわち

「空」の境地から発語されてくる言葉は、

したがって、何かを語っているようで、

何を語っているのでもない。

言葉は、語らないためにこそ語られているのだ。

このことは常に留意しておきたい。

そうでなければ、

「そんなものはない」と言っているのに、

そう言われているというまさにそのことによって、

「そんなものがある」と言われているかのように

聞こえてしまうのである。

まこと言葉は厄介である。

 たとえば右の般若心経、

「死はない」と言われている。

死後の世界とか永遠の生命とか、

そういうものがあるから死はないと、

この人は言っているのではない。

そうではなくて、

「死」という言葉があることで、

それがあると思われているけれど、

しかし死なんてものは、

もともと「ない」。

ないものはないのだから、

ないものがなくなるなんてことも「ない」。

そういう恐るべき当たり前のことを、

この人はここで言っているのである。

 いま少しわかりやすく説明できそうである。

お釈迦様は、絶対無、

「空」の境地にいる方だから、

自分なんてものも「ない」。

ないものが死ぬなんてことがあるわけがない。

いったい「誰が」死ぬというのか。

死ぬ者のない死とはこれいかに。

 あるいは逆に、

自分の「死」などどこにも「ない」。

死んだ時には自分はいない。

自分がいる時そこに死はない。

それなら「自分の死」なんてどこにもない。

やっぱり死なんて存在しない。

 存在しないにもかかわらず、

それは存在するかのように、

暗愚たる我々には「見える」。

お釈迦様も、

それがそう見えることを否定しているわけでは「ない」。

だから、

「色即是空」なのだ。

「空即是色」なのだ。

迷いも苦しみも、

「ない」ものを「ある」と思い込むところに生じるのだから、

「ある」ものの「なさ」をこそ、見抜きなさいと。

 しかし、ここまで「ない」を徹底するなら、

最後にひとつ、言い忘れていやしないか。

「涅槃」なんてものは「ない」。

そんなものは存在しないと、

どうして言わなかったものだろう。

「涅槃」と言葉で言われれば、

そういうものが「ある」かのように、

暗愚たる我々はどうしたって思ってしまう。

そして、それを得ようという執着が、

執着ゆえの苦しみが、必ず生じてくるではないか。

 ほら言わんこっちゃない。

だから私は本当は何も言いたくなかったのだ。

 お釈迦様の本音が、聞こえてくるような感じがする。

いやこれは本当に聞いてみたい。

本当のところは、どうなのですか。

 本当のところなど、「ない」。

この人は、きっとそう言うに違いない。

いや正確には、あると「言えば」あるけれど、

ないと「言えば」ないのだよ。

 死後や輪廻について問われても、

一切答えなかったという。

当然である。死がないというのに、

ないものの「後」など、あるわけがない。

といって、「ない」と言ってしまうと、

まるでないと言っているかのようである。

これはまったくどうしようも「ない」。

言葉でなんか言えっこ「ない」。

 しようもないから、ほっておけ。

「知恵の完成」とは、ひょっとしたら、

態度のことではなかろうか。

 

   参考文献『般若心経・金剛般若経』

  (中村元・紀野一義訳註、岩波岩庫、一九六〇年)

 

 

 

すごい言葉だし、

 

こんな風に読めるのかと

 

笑いすら起こってしまいます(笑)。

 

 

 

詳細は省略させて頂きますが、

 

空海さんのところで

 

 詠じられているその意味内容よりも先に、

その詩才、文才の見事さに感嘆する。

幾多の仏教的著作とともに、

文章論をもものしているこの人の、

言葉へのこだわりが端的に見てとれる。

 

とも語られており、

 

親鸞さんのところで

 

 とは言え、この人自身は、

そんなふうに理知によって真っ直ぐに、

そういう境地に至ったのではないように見受けられる。

自他により著わされた文章を見ても、

何というか、「ヌケ」が悪く、

ああでもないこうでもない、

罪深い自分、

救われがたいわたくし、

だからこそ救われているのだ

ということを信じてひたすらお念仏せよ。

 悩み抜いて、苦しみ抜いて、

自らでも気づかないうちに

いつのまにか至った境地なのではなかろうか。

決してこの世の地平から離陸しようとしていない

その心情と言説は、

だからこそ広く大衆に「共感」という形で

指示されたのかもしれないが、

功罪半々ということはなかろうか。

 

とも語られています。

 

 

 

また、時折、

 

見返してみたい言葉です。

 

 

 

それでは、皆様、本日も

 

楽しくお過ごし下さい。

 

 

 

最後まで読んで頂き、

 

ありがとうございました。

 

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