人生は愉快だ
著者 池田晶子
発行所 毎日新聞社
2008年11月1日第1刷発行
と、お釈迦様は語ったと、
お経は語っている。
はたして、本当だろうか。
と、どうしてもそう考える。
およそこの「語られている」、
「言葉で語られている」というこのことに、
まず、我々は疑いをもつべきなのである。
必要なのは疑いではなくて信心ではないのか。
人は言うかもしれない。逆である。
もし言葉で語られていることが、
そも言葉で語れないことであったなら、
言葉で語られている通りを信じ込むことこそ、
「顚倒夢想」なのである。
しかし、「語る」以上は、
人は「言葉で」語るしかない。
お釈迦様も大変だったのではなかろうか。
考えてみたい。
この人の言葉は、全部が否定である。
「ない」「ない」
「あれではない」「これでもない」
「なんでもない」「なんにもない」
そういう「絶対無」、すなわち
「空」の境地から発語されてくる言葉は、
したがって、何かを語っているようで、
何を語っているのでもない。
言葉は、語らないためにこそ語られているのだ。
このことは常に留意しておきたい。
そうでなければ、
「そんなものはない」と言っているのに、
そう言われているというまさにそのことによって、
「そんなものがある」と言われているかのように
聞こえてしまうのである。
まこと言葉は厄介である。
たとえば右の般若心経、
「死はない」と言われている。
死後の世界とか永遠の生命とか、
そういうものがあるから死はないと、
この人は言っているのではない。
そうではなくて、
「死」という言葉があることで、
それがあると思われているけれど、
しかし死なんてものは、
もともと「ない」。
ないものはないのだから、
ないものがなくなるなんてことも「ない」。
そういう恐るべき当たり前のことを、
この人はここで言っているのである。
いま少しわかりやすく説明できそうである。
お釈迦様は、絶対無、
「空」の境地にいる方だから、
自分なんてものも「ない」。
ないものが死ぬなんてことがあるわけがない。
いったい「誰が」死ぬというのか。
死ぬ者のない死とはこれいかに。
あるいは逆に、
自分の「死」などどこにも「ない」。
死んだ時には自分はいない。
自分がいる時そこに死はない。
それなら「自分の死」なんてどこにもない。
やっぱり死なんて存在しない。
存在しないにもかかわらず、
それは存在するかのように、
暗愚たる我々には「見える」。
お釈迦様も、
それがそう見えることを否定しているわけでは「ない」。
だから、
「色即是空」なのだ。
「空即是色」なのだ。
迷いも苦しみも、
「ない」ものを「ある」と思い込むところに生じるのだから、
「ある」ものの「なさ」をこそ、見抜きなさいと。
しかし、ここまで「ない」を徹底するなら、
最後にひとつ、言い忘れていやしないか。
「涅槃」なんてものは「ない」。
そんなものは存在しないと、
どうして言わなかったものだろう。
「涅槃」と言葉で言われれば、
そういうものが「ある」かのように、
暗愚たる我々はどうしたって思ってしまう。
そして、それを得ようという執着が、
執着ゆえの苦しみが、必ず生じてくるではないか。
ほら言わんこっちゃない。
だから私は本当は何も言いたくなかったのだ。
お釈迦様の本音が、聞こえてくるような感じがする。
いやこれは本当に聞いてみたい。
本当のところは、どうなのですか。
本当のところなど、「ない」。
この人は、きっとそう言うに違いない。
いや正確には、あると「言えば」あるけれど、
ないと「言えば」ないのだよ。
死後や輪廻について問われても、
一切答えなかったという。
当然である。死がないというのに、
ないものの「後」など、あるわけがない。
といって、「ない」と言ってしまうと、
まるでないと言っているかのようである。
これはまったくどうしようも「ない」。
言葉でなんか言えっこ「ない」。
しようもないから、ほっておけ。
「知恵の完成」とは、ひょっとしたら、
態度のことではなかろうか。
参考文献『般若心経・金剛般若経』
(中村元・紀野一義訳註、岩波岩庫、一九六〇年)
すごい言葉だし、
こんな風に読めるのかと
笑いすら起こってしまいます(笑)。
詳細は省略させて頂きますが、
空海さんのところで
詠じられているその意味内容よりも先に、
その詩才、文才の見事さに感嘆する。
幾多の仏教的著作とともに、
文章論をもものしているこの人の、
言葉へのこだわりが端的に見てとれる。
とも語られており、
親鸞さんのところで
とは言え、この人自身は、
そんなふうに理知によって真っ直ぐに、
そういう境地に至ったのではないように見受けられる。
自他により著わされた文章を見ても、
何というか、「ヌケ」が悪く、
ああでもないこうでもない、
罪深い自分、
救われがたいわたくし、
だからこそ救われているのだ
ということを信じてひたすらお念仏せよ。
悩み抜いて、苦しみ抜いて、
自らでも気づかないうちに
いつのまにか至った境地なのではなかろうか。
決してこの世の地平から離陸しようとしていない
その心情と言説は、
だからこそ広く大衆に「共感」という形で
指示されたのかもしれないが、
功罪半々ということはなかろうか。
とも語られています。
また、時折、
見返してみたい言葉です。
それでは、皆様、本日も
楽しくお過ごし下さい。
最後まで読んで頂き、
ありがとうございました。
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