教養として知っておきたい宗教学
著者 中村圭志
発行所 株式会社PHP研究所
2024年2月15日第1版第1刷
近所のイオンの本屋さんで
定価913円にて購入させて頂きました。
新年2冊目? 3冊目の読了にできるのでしょうか……。
他事があったり、体調不良があったり、
あっち読んだり、こっち読んだり
なかなか集中して一気に
とは行きません(涙)。
このように、宗教によって、
「大事なもの」の観念や
それをめぐる感性が異なります。
しかしそれでも、
「何か大事なもの(神、仏、霊、悟り、パワー……)」
と
「日常的なもの」
の二階建てでできていると考えるという点では、
どの宗教もよく似ていると言えます。
そこで、この、
日常を超えた大事なものの観念をひとくくりに
「聖」と呼び、
日常的なものを
「俗」と呼ぶこにするのです。
「宗教とは聖と俗の二元論で成り立っている世界である」
宗教の定義
様々な学者が宗教の定義を行っています。
それらの多くは基本的に研究上の便宜であり、
宗教の本質を語るものではないとされています。
代表的なのは、
宗教を「聖と俗」という観点から定義するもののと、
「究極的関心」という観点から定義するものです。
デュルケムによれば、宗教とは
「聖を禁止によって分かつシステム」です。
禁止というのはタブーですね。
聖といえば、宗教史学者・民俗学者の
ミルチャ・エリアーデ(一九〇七~一九八六)は、
いかなる物も宗教的象徴となり得るとし、
動植物や木石や火や天体のうちにおける
「聖なるものの顕現」を意味するヒエロファーニ
という概念を提唱しました。
宇宙の深い意味が読み取れるとき、
俗は聖になるのです。
他方、神学者パウル・ティリッヒ(一八八六~一九六五)は
「人間の究極的関心にかかわる象徴システム」
という形で宗教を定義しました。
ここで究極的関心とは、
様々な文化的習慣、科学的知識、政治的判断、処世術を超えて
「結局人生において大切なのは何か」
という問うことです。
これによれば伝統的に宗教と呼ばれているような形をとらなくても、
人間が何かに真剣にかかわっている限り、
そこに「宗教」が見出せることになり、
影響力は大きい考え方でした。
日本の宗教学者、岸本英夫(一九〇三~一九六四)も
「究極的」という言葉を用い、
「宗教とは、人間生活の究極的な意味を明らかにし、
人間の問題の究極的な解決に関わりをもつと、
人々によって信じられている営みを中心とした文化現象である」
としています。
なお、これは宗教の定義と言えるのかどうか分かりませんが、
「宗教」というものに関する非常に有名なコメントを一つ。
哲学者のカール・マルクス(一八一八~一八八三)の言った
「宗教は民衆のアヘンである」です。
これは宗教に対する単なる無理解ではなく、
宗教の重要な側面をつく言葉でしょう。
社会の中に構造的な問題があるとき、
宗教は問題のただ中において人々に慰安を与えてしまいます。
それでは問題の解決にならないし、場合によっては、
人々の怒りを間違った方向に焚きつけてしまいますからね。
アニミズム
はっきりとした神の概念をもたない民族でも、
動植物や無生物に「霊魂」が内在している
と考えている場合が多いようです。
霊魂の存在を信じる文化のことを
アニミズムと呼びます。
霊魂といっても多義的で、
個人や動物などを生かしている生命力のようなものから、
個体を個体たらしめている意識のようなものまで、
様々なイメージがあります。
自分の身体の中にあって、
死んだら抜け出るというイメージも多く、
死者や先祖の霊が生者と交流を求めたり、
意識をもった動物が語りかけてきたり、
生命力を帯びた物品が動物のように振舞ったりする
イメージもあります。
なお、やや人格的な霊魂などよりも、
非人格的で直接的な魔法的な力の信仰の方が
いっそう基礎的だという見解もあります。
昨今の「パワースポットめぐり」などにおけるパワー
なんかはそんな感じの概念です。
日本人にとっても
切っても切れないもの
のような気はします。
それでは、皆様、本日も
楽しくお過ごし下さい。
最後まで読んで頂き、
ありがとうございました。
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