勝手の俺は、こう信じていた。
「今の自分こそ、完成された姿だ」と。
自分の信念が正義であり、
その中に疑いが入り込む余地など、一片もなかった。
己の道は、己の真理。
他を顧みる必要などないと、そう思い込んでいた。
だが時は流れ、
思考は崩れ、
何度も塗り替えられてきた。
そのたびに「前の俺は未熟だった」と思い直し、
「今こそが真の自分だ」と信じる。
だが、またしばらくすれば、
その“真の自分”すら、陳腐に思えてしまう。
この循環は終わらない。
そして、終わる必要などない。
ある時、気づいたんだ。
どれほど確信に満ちた瞬間であっても、
それは通過点に過ぎないということに。
人は「何かになる」のではない。
ただ、在り続ける。
この“在る”という営みの中で、
己を更新し続け、
昨日の自分を超え、また歩みを進める。
ある風景が、心に焼きついている。
祖父が亡くなったあの日、
俺と両親は、彼の墓の隣に小さな松の苗を植えた。
冷たい風が吹いていた。
地面は湿って重く、
苗木の幹は、俺の腕ほどの細さしかなかった。
それから、長い時間が流れた。
俺は町を離れ、多くを経験し、
数年ぶりに、あの場所を訪れた。
そこにあったのは、
立派に育った松の木だった。
空に向かって、静かに、力強く枝を伸ばし、
幹は、かつての俺の腕よりも遥かに太く、しっかりと地を掴んでいた。
だが育っていたのは、木だけではなかった。
俺もまた、あの日のままではなかった。
知らぬ間に、変わり、積み上がり、
あの日の自分からは、遥か遠くに来ていた。
成長とは、音もなく進むものだ。
怒鳴らず、主張せず、ただ、在る。
しかしその在り方は、やがて形を変え、
気づいた時には、すでに別の自分になっている。
だからこそ、忘れてはならない。
人間は常に、未完成だ。
エゴに足を取られるな。
「もう十分だ」と思ったその瞬間から、
歩みは止まり、心は鈍る。
目に映る全てに学びはある。
湿った土の上で餌をついばむ一羽の鳥でさえ、
何かを語っている。
その声に耳を傾けられるかどうかは、己次第だ。
他人を見下すな。
今の自分が、軽蔑する誰かの立場に、
明日は立っているかもしれない。
答えを焦るな。
だが、怠ることもするな。
答えは、己の準備が整った時にしか訪れない。
もし一つ逃してもいい。
次に来る問いに、真っ直ぐ向き合うことができれば。
俺たちは、松の木のように、
静かに、確かに、育ち続けている。
何者にもならず、
ただ在ることで、
己を深めていくのだ。
そして、最後に——
俺が学んだ教訓がある。
「松の木は、時折 下枝を剪定してやることで、
より高く伸びることができる。」
それは庭師の知恵であり、
同時に、人生の極意でもある。
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