1999年12月31日(金)
錦君と部屋でギターを弾いていると、彼が、僕のストリートライブを見てみたいと言うので、
部屋にいたトルコ人のオーマと一緒にカウントダウンライブをしに外灘へ向かうことになった。
カウントダウンと言っても、今日はフランクとジェームズとクラブでも行って、
朝まで踊り明かそうと約束していたので8時30分までには帰らなくてはいけないのだが。
昼間出ていなかったので、全然知らなかったが、
今日はカウントダウンのせいか道路も外灘もすごい人だった。
ギターを持って歩けるような状態じゃなかったので人ごみの嫌いなオーマは諦めてホテルに戻った。
もちろん僕も歌う気はなかったが、途中そこだけ人の少ない場所を見つけ、錦君はダメ元でそこでやってみようと言う。周りには警察がうようよしていたので少し怖かったが、今日は、友達がいると言うことで少し強気になりそこで歌うことにした。
歌い始めると、やっぱり人がなだれ込んできた。
僕の前も後ろも横も、僕の回りはあっという間に人だかりになってしまった。
後ろから聞かれるのは僕も初めてで少し緊張するが錦君はそんな光景をみて喜んでいる。
帰らなくてはいけない時間になっても人は減ることはなかった。
ずっと僕の周りで聞いていてくれる。
とてもうれしかったが時間が時間で帰らなくてはいけないので、
「次の曲が最後です。」と言って最後の曲を歌った。
しかし僕が歌い終わっても誰も動く気配がない。
英語だったせいか、みんな解らなかったのだろうか。
次は、身振り手振りを使って、次の曲が最後だと説明する。
僕が歌い終わり、ありがとうと言って周りを見渡す。
拍手をしてくれるが誰も動く気配はない。
それどころか。今度は、リクエストされてしまう。
さすがに僕は断りきれず錦君に先に帰ってもらい、
フランクたちにもうすぐ帰ると伝えてもらうことにした。
「Next song is a final song.」
5曲は最後の曲を歌っただろうか。
僕がまた、次の曲を歌おうとしたとき幸運にもちょうど警察が来てくれ、
ここを封鎖するからもう終わりにしてくださいと言う。
このときばかりは、素直に警官の指示に従い、すぐにギターを片付けた。
いつもは、5分でつく距離なのに、ホテルにたどり着くまで30分以上かかった。
警察が訳のわからない道路封鎖をしているので人の流れが止まっていたのだ。
ホテルに戻ってみると錦君が待っていてくれた。
フランクもジェームズもこの道路封鎖でやはり戻って来れないらしく、
今日はクラブにはいけそうにもないので、錦君と好食家へ飯を食べに行った。
好食家の人たちと一緒に話しながら食事をしていると11時を過ぎていた。
僕らが店を出てみるとホテルの周辺までも道路封鎖が始まっていて、
50メートル先のホテルまでも帰れなくなってしまった。
警官にいつ戻れるのか筆談で尋ねてみると、
カウントダウンの花火が終わった後、1時過ぎだと言う。
1時と言うことは3時間も外で待たなくてはいけないことになる。
冗談じゃないと言うことで近くにいた同じ浦江飯店に泊まっている日本人の人と、
パスポートやホテルカードを見せて30分くらい丁重に抗議した。
警官もやっとわかってくれたらしく、偉い人に聞きに行ってくれ、
なんとかOKをもらいホテルに帰ることができた。
チャイナシステムはよく解らない。
僕らがホテルに戻るとちょうど花火が始まったので、
眺めのいいトイレからカウントダウンの花火を眺めた。
花火を見たあと、沈威に電話をかけてみたら、
金蒙ホテルという確か中国で1番、世界で3番目に高い(建物の高さ)
高級ホテルのパーティーで歌っていたらしくちょうど今、終わった所だと言う。
この後、知人と一緒に食事に行くから一緒に行かないかと誘ってくれた。
せっかくの、ニューイヤーにホテルにいるのも寂しいので僕も連れて行ってもらうことにした。
彼女はホテルにタクシーで迎えにきてくれると言っていたが、
まだ道路が正常に機能していないので来ることができないらしく
僕はバスで彼女のいるレストランへ向かうことにした。
レストランにつくと、彼女のお母さん、もうひとりの女性歌手とそのお母さん、
そして作曲家の人がいた。ウエイがみんなに僕を紹介すると作曲家の人がビールを持ってきてくれみんなで乾杯した。
彼女達はこれからどうやって有名になるかを話し合っているらしく。
僕はなんだか場違いな所へ来てしまったようだった。
作曲家の人も僕に気を使ってかいろいろ話してくれたので、
僕も楽しい時間を過ごすことができた。
彼女とお母さんはタクシーで同じ方向の僕を送ってくれた。
帰り際、明日はニューイヤーだから家に遊びにおいでと誘ってくれた。