なぜ、私の古武道は特訓をしないのか??
すでにコメントで答えを頂いてますが、
それは「常在戦場」だから。
「戦争」をしなさいと言うことではありません。
つねに「戦場」にいると思って、何事も備えておきなさいと言うことです。
特に600年前から私の家に伝わる武術は、特訓という概念もありません。
本当の実戦を考えた場合、
(戦国時代をイメージしてくださいね。)
思いっきり特訓をして、身体が疲労の極致になったとき
敵が襲ってきたり、「戦(いくさ)」になったりしたらどうします??
死にに行くようなもんです。
スポーツのように、戦の日(試合日??)が決まっている訳ではないので
そんなのあり得ないわけです。
「山にこもって修行」といのが、昔から良く聞きますが
それをやってる剣術かは、浪人です。
殆どの場合、「山にこもって・・・」というのも、自分の価値を高めて名を広め
どこかの殿様に仕官(就職)することが目的です。
実際に武士として(戦闘員として)、どこかに仕官している武士は
そんなことしませんし、出来ません。
忙しいから。
勝手に山にこもったら、殿様に怒られるでしょう。
(それで済んだらいいですけれど。)
私の流には、キチンと日常生活の中で身体の中心軸を基本に鍛えていく方法が伝わっています。
しかも、鍛錬の部分に関しては私が形式だけの部分をカットし、
運動生理学的にさらに効果的になるように改変してあります。
それから大事なのは、精神性をどう向上させるか?
これも武道は、宗教的な修行より優れている点が多いのです。
それは自分がサボれば、失敗するし、
努力すればうまくいくように出来ているからです。
自分自身で、間違っていたか、正しかったが分かるのです。
座禅だけでは、自分の悟りがお師匠様に見てもらうしか
正しいかどうか分かりません。
そこで自己否定と再生が行われて精神性が向上していきます。
今の武道スポーツのように、体罰など全く必要ないのですよ。
体罰が存在すること自体、私のやっている古武道からすれば
システムとしての大きな欠陥があると言えます。
そして、それは武道ではないでしょう。
指導者に「武道」にとってもっとも大事な、
「五常の徳」が備わっていない。
指導者も、「武道」を鍛錬したことがないのでしょう。
武道は、「道」でなければならない。
「道」とは、人としてあるべき「姿」を示すのです。
私も、当然その「道」を極めたわけではなく、
が、しかし、
「凡庸なる士夫」である以上、極めることが出来なくとも
死ぬまで目指すことは出来ます。
「突き」が出来るから、「蹴り」が出来るから、「投げれる」から、
はたまた、実戦的なルールだからといって、
相手を倒す技術があるから、「武道」というのではありません。
すでにコメントで答えを頂いてますが、
それは「常在戦場」だから。
「戦争」をしなさいと言うことではありません。
つねに「戦場」にいると思って、何事も備えておきなさいと言うことです。
特に600年前から私の家に伝わる武術は、特訓という概念もありません。
本当の実戦を考えた場合、
(戦国時代をイメージしてくださいね。)
思いっきり特訓をして、身体が疲労の極致になったとき
敵が襲ってきたり、「戦(いくさ)」になったりしたらどうします??
死にに行くようなもんです。
スポーツのように、戦の日(試合日??)が決まっている訳ではないので
そんなのあり得ないわけです。
「山にこもって修行」といのが、昔から良く聞きますが
それをやってる剣術かは、浪人です。
殆どの場合、「山にこもって・・・」というのも、自分の価値を高めて名を広め
どこかの殿様に仕官(就職)することが目的です。
実際に武士として(戦闘員として)、どこかに仕官している武士は
そんなことしませんし、出来ません。
忙しいから。
勝手に山にこもったら、殿様に怒られるでしょう。
(それで済んだらいいですけれど。)
私の流には、キチンと日常生活の中で身体の中心軸を基本に鍛えていく方法が伝わっています。
しかも、鍛錬の部分に関しては私が形式だけの部分をカットし、
運動生理学的にさらに効果的になるように改変してあります。
それから大事なのは、精神性をどう向上させるか?
これも武道は、宗教的な修行より優れている点が多いのです。
それは自分がサボれば、失敗するし、
努力すればうまくいくように出来ているからです。
自分自身で、間違っていたか、正しかったが分かるのです。
座禅だけでは、自分の悟りがお師匠様に見てもらうしか
正しいかどうか分かりません。
そこで自己否定と再生が行われて精神性が向上していきます。
今の武道スポーツのように、体罰など全く必要ないのですよ。
体罰が存在すること自体、私のやっている古武道からすれば
システムとしての大きな欠陥があると言えます。
そして、それは武道ではないでしょう。
指導者に「武道」にとってもっとも大事な、
「五常の徳」が備わっていない。
指導者も、「武道」を鍛錬したことがないのでしょう。
武道は、「道」でなければならない。
「道」とは、人としてあるべき「姿」を示すのです。
私も、当然その「道」を極めたわけではなく、
が、しかし、
「凡庸なる士夫」である以上、極めることが出来なくとも
死ぬまで目指すことは出来ます。
「突き」が出来るから、「蹴り」が出来るから、「投げれる」から、
はたまた、実戦的なルールだからといって、
相手を倒す技術があるから、「武道」というのではありません。