医学でも、武術でもそうなんですが、
実際にやってみないと身につきません。
それらに関する本を持っているからと言って
すごい人と言うのは、間違っています。
机上の空論とも言います。
学生時代に参考書を買っただけで、安心してしまうようなものです。
実際にやらないと身につきません。
昔、ある禅宗の和尚に「面授」という話を伺いました。
修行中のある時、修行僧が集まって禅師の説教を聞いていたそうです。
「説教」というと「怒られていたのか?」と思う人がいるかもしれませんが
本来、「説教」とは教えを説くことです。
ある日、日頃の厳しい修行のためか、隣の修行僧が居眠りをしていたそうです。
そこでこの修行僧を起こそうとしたとき、禅師が
「起こさなくとも良い。」
と言ったそうです。
「え、しかし・・・」
と言いましたら
「ここにいればそれでよい。」
と仰った。
続けて、禅師は、
「仏法というものは、言葉や書物で伝わるものではない。」
「ここにいれば、時間をかけて伝わるものなのだ。」
と説かれました。
これを「面授」というのだと。
もちろん、修行をサボる不真面目なものには「面授」など在るはずはないのですが
この居眠りをしていた修行僧は、決して不真面目なものではなかったのです。
ですから、その志がある限り「面授」で伝わるのでしょう。
この話には、ふむふむと感心したものですが、
これと同じ話を、臨床神経学の勉強中に体験することになりました。
続く。
(このブログ記事は、私の「武道と東洋哲学のブログ」でもアップされています。)
実際にやってみないと身につきません。
それらに関する本を持っているからと言って
すごい人と言うのは、間違っています。
机上の空論とも言います。
学生時代に参考書を買っただけで、安心してしまうようなものです。
実際にやらないと身につきません。
昔、ある禅宗の和尚に「面授」という話を伺いました。
修行中のある時、修行僧が集まって禅師の説教を聞いていたそうです。
「説教」というと「怒られていたのか?」と思う人がいるかもしれませんが
本来、「説教」とは教えを説くことです。
ある日、日頃の厳しい修行のためか、隣の修行僧が居眠りをしていたそうです。
そこでこの修行僧を起こそうとしたとき、禅師が
「起こさなくとも良い。」
と言ったそうです。
「え、しかし・・・」
と言いましたら
「ここにいればそれでよい。」
と仰った。
続けて、禅師は、
「仏法というものは、言葉や書物で伝わるものではない。」
「ここにいれば、時間をかけて伝わるものなのだ。」
と説かれました。
これを「面授」というのだと。
もちろん、修行をサボる不真面目なものには「面授」など在るはずはないのですが
この居眠りをしていた修行僧は、決して不真面目なものではなかったのです。
ですから、その志がある限り「面授」で伝わるのでしょう。
この話には、ふむふむと感心したものですが、
これと同じ話を、臨床神経学の勉強中に体験することになりました。
続く。
(このブログ記事は、私の「武道と東洋哲学のブログ」でもアップされています。)