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必ずしもこの三次元で何かを望み創造をすることはないと思っています。


外側の世界は、自分の内側という原因によって創られているのは分かります。



よく、人生の本来の目的は思い通りに現実を創造して生きることだと言われています。


エゴの自我ではなく真我や宇宙意識や高次元意識になれば思いのままに楽しめるのだと。


それにはいろいろな方法があり、その人なりにご縁などから合ったやり方を選べばいいのです。



三次元でやりたいことが、人それぞれにさまざまあるのは当たり前なことだと思います。


でもきっと、私と同じように「三次元で叶えたいことなどそもそも無い」人もいくらかいるでしょう。



どうしても、どれだけ考えてもやりたいことが思いつかないのです。


自分のやりたいことが分からないなんて!と思われますよね。


私も、それはまずいことなのだと長らく思ってきました。


本当にやりたいことをしてこそ三次元での存在理由かのように言われることは多いです。



したいこと、この世界に産まれたからには誰もがそれを持ち合わせているはず…。


そんなプレッシャーをいつも感じて、劣等感さえありました。


三次元でしたいこと…


ずっと探してきましたが、やりたいことがあるのならやればいいだけなのだし、


あえてスピリチュアルを学んだ上で実現したい特別なこととは?



もちろん誰かの様を見ていいなと思うことはたくさんありました。


そういう時は同じようにそれをしている自分を思い浮かべてみるのですが、欺瞞しか感じません。


「やりたいことをしている自分」を装ってする楽しい振りが楽しい、という欺瞞です。


だから、本心から好きで続けられるものを持っている人が羨ましくて仕方がなかったです。


真似はできても本物にはなれません。



どれだけ学んで深めても、いつまでも自分のしたいこと一つ分からない自分が情けなくて。


「夢だったことを始めました!」とか「まさか自分がこれをしたかったなんて!」という声にケチをつけたくなりもしました。



それこそ内側の何がそれを観せていたのかというと、自信の無さです。


どんな自信の無さかというと。


「三次元でやりたいことは無い」という自らを信じてあげない「自信」の無さでした。



やりたいこと?

私はそんなものはありません。


強いて言えば私はなにが出来るのだろうという問いがあり、一所懸命それに向き合ってきています。


意識的になにかを決めて、内なる原因から外側の現実を創造して楽しむ人、とは別の存在理由もあっていいのでした。



なにができるだろう?これでいいのだろうか?という思いから、やれることをひたすら頑張ってきました。


そしていつしか外側の世界が、「今あなたはここだよ」と結果から「やれたこと」教えてくれるようになったのです。


やりたいことがある側の人間になりたくて、意識的に現実を創造しようとベクトルを向けていたときは「やらねば」というものがあったかもしれません。



原因に「私」は無くていい。


結果を観て、これが「私」なのか〜と知っていく感じです。


過程そのものを受け取るだけ、それが私にとって自己実現へのたゆまぬ道なのでした。



私はかつても今も持っているものは殆ど無いのですが、有り難いことにパートナーは与えられました。


そのパートナーも、多くを手放した状況から私と出逢ってくれています。


外側になにも持たない二人が出逢って、内側に持っていたものさえ手放さざるを得なくなってきています。


まるでなにも持たない者同士が二人で、この三次元でなにを出来るのでしょう?



なにも出来なくていいのです。


なぜならば、私たちは三次元の中で何かをするために来ていない。


三次元そのものを新しく創造するため全てを手放したくて来ているのです。


三次元を知り三次元を手放す、空になるまで。


仕組みであろうとルールであろうと何もかも、かな?



結果は初めから決まっています。

いかに原因となってゆけるかを楽しむ、私とパートナーだけのストーリーかもしれません。




最後までお読みいただけて、とても嬉しいです。ありがとうございました。


ご縁に感謝✨