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人間は、どうして存在するのでしょう。


なぜ、人間はどうして存在するのかなどと考えてしまうのでしょう?



古くから哲学や心理学また精神医学分析学などありますが、私には大まかなイメージでしか言えませんがこれらは、


人間が存在してしまっているのにもかかわらず、なぜ存在せらるるのか誰も知り得ないというところから発した学問のように思います。


学問しないのであれば宗教を答に据えて悩まないでおくというのもあったかもしれません。



結局のところこの分野において答が出ることはないので、もしかしたらその不安から文明は成長発展してゆくしかないのかもしれませんね。


そして文明は人類に共通の「神話」となって我々の認識や理解を助ける指針となってくれているのでしょうか。



人間が、存在しておきながらその理由を実は分かっていないというのは、かなりな不安であることと思います。


足元が一向に定まらないまま見切り発車のように始まり、すべてが仮説でしかない状態で進み続けているかのようです。



答探しで答が出ない場合は方法を変えて試みていくしかないので、それゆえ現代にはこれほどスピリチュアルが伸展しているのではないでしょうか。


多様なスピリチュアルの、ひとりひとりが自分の気に入った仮説を頼りにこの世界やそれを認識する人間の存在に答を見出そうとしています。



この「仮説」であるということ、これをすっかり忘れてしまうのは各々がどれか選んだ時点でそれを「信じる」しか受け入れる方法がないからです。


どうもこれを原因にパートナーと大喧嘩になってしまっているようでした…。


「信じる」以外の根拠がないのに正邪を断じようという愚かさが自分では分からないものです。


正邪になぜこだわるのか分からないのですが、「期待」というエゴのことを明示してくださる方があり、それも今後理解していきたいことのひとつになりました。



ただこのときは、パートナーの仮説は「目の前の異世界」なのだと腑に落ちました。


○の世界の中に二人で居て戦っているイメージでしたが、◐のように異世界同士を合わせているだけか…と。


異世界は干渉できず戦えないのに、「期待」や「正邪」に躍起になって一人相撲しているだけだとしたら、

もう対立という構図から離れられるかもしれませんね。



この世界という大きな単位で見るときには万人で共有出来ている「仮説」があり、それで人類はそこそこ統一された景色を見ていますが、

単位を小さくしていくと個々人の「仮説」には互いに相容れないものも出てきます。


困った矛盾になるのですが、仮説とはいえそれを土台に生きてしまった以上それは真実であると言えます。


世界があり自分がいて現実感や実感があるのに、それまで嘘かもと言いだしたらそれは仮説の放棄に他なりません。


人間とはという仮説、この世界という仮定、文明という神話。集団や個人の他のありとあらゆる選択。


基本設定という仮説以外は、完全個別に好きなように仮説を集めカスタマイズしたものを「自意識」と呼ぶのかもしれません。





よくまとまらず不出来な記事にお付き合いくださって、ありがとうございました。


まだまだ最強アイテム探しの途上にて、内容の拙さをご容赦いただけたら幸いです。


ご縁のありましたことに感謝申し上げます✨