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なにかの道のりを登山に例えることは、よくある手法です。

スピリチュアル的な探求/探究においてもそれは分かりやすく、説明の助けになると思います。


日本には、
美しく気高き独立峰“富士山”がありますね。

そういう山に対する心象が、目指すものに対する意気に誇りを感じているという証となってくれるのでしょう。


他人になにかを伝えられたとき、それが自分の中で印象的なとらえ方をされればそれは、あなた自身の「特別な」情報です。

「どなたが仰った」かなどは重要ではなく、聴いたあなたにとってどれほど感じられたかが重要なのです。

「誰それさんが言ったので、」によって重みが変わると思っているのなら、あなたはただの差別的な権威主義者です。


「特別な」というのは、
言ってしまえば己の観るものは何もかもが自分の情報ですので、現時点での順位付けのようなことです。

言葉はやたらと誤解を生むので、説明が増長してしまうことが辛いところですね…。


本来は「無」でも「空」でもよいのですが、アセンションという目的があるのでどうしても枠や範囲はあります。

「枠」や「範囲」という概念にジャッジがあるのであれば嫌だと感じるでしょう。
ただ枠と範囲があるだけです。
「特別な」や「順位付け」もしかりです。


さて、
今生に地球へアセンションをしに来ている私たちですが、山を登っています。

「今生の地球アセンション」の山は不二山です。


皆が山に登る必要はないと思っています。
現実にも、登山が趣味でなければ山に魅力など感じないのはなんら異常なことではありませんね。

本当に、それぞれで良いのです。

私やあなたが、山に登り山頂を目指すと決意しているから勝手に登りたいのです。

登山が大好き!

そのうえでまた、どの山に登りたいのかも自由です。
体力や好き嫌いで登る山を選ぶことは楽しみにつながります。

難易度の低い山でまずは経験を積んだり、足馴らしに時間をかけて自信が付けば憧れに挑むなど、
本当に登山とは、人生を例えるのにうってつけです。

海が身近な文化圏では、人生は航海になぞらえられますけれどそれも。


私は富士山の五合目まで車で行き六合目まで歩いたことがあるだけですが、
富士の山肌を感じ山と交流することは十分できました。

あくまで例え前提の話ですが、登山は踏破だけが目的なのではないと思います。
自分自身の目的達成や納得をすること、体験を持ち帰ることができればよいのではないでしょうか。

そして登山が好きでいろいろな山に登りたいのなら、
なによりもまず、必ず生きていなくてはなりません。


私の人生で子どもの頃からの最重要なミッションは「死なないで生き続けること」でした。


選ぶ山やルートやペース、パーティーを組むのか単独行なのか自分自身で決めて生まれてきているのですよね。

この時代にこの地球へ人間として産まれて、理由も目的も隠されているのに険しい道のりを征かざるを得なかった。

だからこその私たち。


繰り返しますが、
「今生の地球アセンション」という山は不二の山です。

この山は、人類にとって唯一の美しく気高き独立峰です。

人に優劣の無いように、山にも優劣はないのですが違いは厳然とあるのです。

謙虚も傲慢も要りません。
美しく気高き不二山に臨むのは、相応の魂だからこそ。


登らねばならぬ山などなく、私たちは望んで挑み続けてきたのです。

何かをしに来ていることを自覚されているのならしっかりと「答」を求めてください。

進み続けてゆけば辿り着くところは、一点しかありません。

もしあなたが不二山の頂を目指し登っているのなら、私たちは必ずどこかで出逢います。


その日を楽しみにしています。





読んでくださってありがとうございました。
尊きご縁に感謝✨