チェルビ・chelbi #1-5
「特別、美人ってわけではないな・・・」
最初の印象は、こんな感じ。
歩いて向かう駅前のコンビニの前に、彼女はいた。スラッとした立ち姿の少女。一応、拒絶はしてみたが、僕の視界に強引に入り込んでくる。
できるだけ意識はしていないフリをして、コンビニの自動ドアをくぐった。温められた缶コーヒーと、メンソールのタバコだけを買った。すぐに、外に出た。
タバコのパッケージフィルムを剥がして、内側の銀紙を引き抜く。フィルムと銀紙を手の中で丸めて、ゴミ箱へ向かった。
少女は、まだそこにいた。
夜になってまだ間もなかったが、9月の空気は生ぬるさをなくしている。
白地のシャツに、カラフルなプリントが派手だった。短い袖から伸びた細い腕が、シャツよりも白く見えた。
クシュン。
抑えきれなかったくしゃみ。少女の赤いショートカットが、サラサラと揺れた。
「だいじょうぶ?」
思わず出てしまった言葉が、彼女との最初だった。
不審なものを見る少女の視線が、僕をとらえた。視線はそのままに、自身の肩を力強く抱き締めた少女の腕は、細く、不自然なほどの白色だ。
「さむっ・・・」
初めて聞く彼女の声に、一瞬で、全身の血液が動きを止めた。思わず差し出した手の中の缶コーヒーは、僕のものでなくなった。
「ありがと」
一切の感情を伴わない言葉とは裏腹に、少女の長いまつ毛は、優しく伏せられていた。
薄い胸の前で、大事そうに両手で抱えられた小さなスチール缶。二回目の「ありがと」と一緒に、僕の元へ戻って来そうになった。
「いいって。あげるよ」
「ありがと」
小さく笑いながらの三回目は、僕には完璧すぎた。
白く細い指が、プルトップを器用に持ち上げた。赤い髪を少しだけ払い、小さな缶を大事そうに両手で抱えながら、ゆっくりと飲みだした。
僕の視線と心は、彼女を離さない。僕は、それを拒絶しなかった。
「はい」
少女から差し出された缶を受け取った。半分だけになったコーヒーのぬくもりなのか、彼女の体温なのかはわからない。
そのぬくもりがあるうちに、僕は一気に飲み干した。
「こんなところで、何してるの?」
かなり不自然な言い方をしてしまった。さっきの不審なものを見る視線が、また僕をとらえる。
「それって、ナンパ?」
この声。幼すぎる雰囲気を、完全に裏切っている。
「ナンパしていいの?」
これが、この時の、僕にできる精一杯の抵抗だった。
「いいよ」
また、あの声。今度は、少女っぽさも少しだけ混じっている。
僕の中で、急速に何かが積み上げられていく。そうすることで、溢れ出そうとする緊張を必死に食い止める。
落ち着いた。
頭の中で暴れていたものが、とりあえず息を潜めてくれた。
「おなか、すいてない?」
「実は、すいてる」
「なんか、食べに行く?」
「うん」
かろうじて、なにかの流れが出来かけているのに、なんの準備もできていない自分が、ひどく頼りない。
”僕たち”は、ここから歩いてすぐのファミレスに行くことにした。
不自然な間隔。不規則な速度。ぎこちない横並び。
僕は、自分の歩き方を忘れてしまっている。少しだけ早い心臓の音がうっとおしい。黒さを半分なくしたアスファルトが、やけにくっきり見えてくる。
店に着いて、案内された席に座った。平日の夜ということもあって、客は多くなかった。
「サラダ、頼んでいい?」
メニューに視線を落としたまま、彼女が訊ねてきた。
「どうぞ。なんでも頼んでいいよ。・・・・・。タバコ、吸ってもよろしいでしょうか?」
「いいよ」
「タバコ、吸わないの?」
「吸わない。タバコ、キライ」
彼女は、メニューから視線を離さずに答えた。
僕は、取り出した一本を元に戻し、メンソールのフタを閉めた。青い使い捨てライターと一緒にテーブルの隅に置いた。
「吸わないの?」
「やめる。タバコ、やめます。禁煙します」
「えぇっ!?別にいいのに」
店内の明るさの中に、白い笑顔が不自然に溶け込んだ。
二人にとって、初めての約束。しかし、それはすぐに破られるだろう。
ほとんど会話をしないまま、二人は料理を食べ続けた。二人の間に流れる空気は、ぎこちなく止まったままだった。
ほぼ正常になりつつある僕の思考能力は、冷静に状況判断をはじめている。答えは既に出ている。店を出たら、そこで終わる。
「出よっか」
期待していたものは、もう忘れた。終わるなら早いほうがいい。はじまってもいないものを終わらせる。自分でも不思議なほど、サバサバした決心ができた。
店を出て、最後になるであろうセリフを考えた。彼女に視線を向けた。
そこにあったのは、両手を口に当てた、少女の白い横顔だった。サラサラの赤い髪が、街灯の光をキレイに反射している。
真剣な眼差しの先。薄暗さの向こうに、派手な赤い光がある。二台のパトカーが、静かで不気味だった。
「なにか、あったのかな?」
僕の声は、少女に届いていなかった。少女は、赤い光に向かって歩きはじめた。黙ったまま歩くスピードは、かなり速い。
僕は小走りで追いかけた。すぐに追い付いて、声をかけた。
「どうした?」
真剣な横顔は、こちらを見ようとしなかった。
「多分、あれ、うちのマンション・・・」
「えっ?」
二人の警察官がマンションの入口にいる。一人は無線でなにか話している。少女は歩く速度をゆるめず、もう一人の前まで早歩きを進めた。
「ここの入居者なんですけど、なにかあったんですか?」
派手なバックプリントのシャツに、細く黒いパンツの後ろ姿。華奢な体つきには不釣り合いな、堂々とした口調だった。
「さっき、ここのマンションの管理人が、金属バットを持った男に襲われたんですよ。幸いなにもケガはなかったんですけど、そこの壁のタイルがバットで割られてしまったみたいですね」
グレー色の十センチメートル角ほどのタイルが、床の上で割れている。壁に刻まれた、タイルの剥がれ跡が生々しい。
「不審な男を見かけませんでしたか?」
警察官の問いかけにすぐには答えず、少女は僕を振り返った。僕は、思わず、首を大きく横に振っていた。
少女は、警察官のほうに体を向けなおした。
「見ていません。・・・・・・。あのぉ、部屋に帰ってもいいですか?」
「いいですよ。警察官が二人、建物内を調べてますが、気になさらないでください」
「はい。ありがとうございます」
軽く頭を下げ、それから僕を振り返った。何かを決心したような目で、こちらを見ている。僕は、軽く首をかしげた。
少女は目をつむり、小さく頷いた。
「中に入っていいって。行こっ」
少女に言われるまま、マンションの中に入っていく後ろ姿を追いかけた。警察官の前を、軽く会釈しながら通りすぎた。
四階に向かうエレベーターの中、少女は扉の上の光る数字を見つめている。この狭苦しい空間に、普段は全く気にならない機械音がやけに響いてくる。
エレベーターが静かに到着した。音もなく開いた扉をくぐり、少女は右の方向に歩いていく。僕も、それについていく。
奥から二つ目のドアの前で、少女の足が止まった。
「五分。待ってて」
白い手のひらを僕に見せながら、黒いパンツの前ポケットから鍵を取り出した。
静かだ。
耳をすましても、音がほとんど聞こえてこない。廊下の壁にもたれて、状況を整理しようと試みた。
コンビニで見かけた少女と、ファミレスでご飯を食べて、たった今物騒な事件があったマンションの中にいる。
そして、一人、廊下で待たされている。
名前も知らない少女の部屋の前で、ひどく現実味を失った感覚と、薄っぺらい期待感が上手くまとまらない。頭の中の独り言がうるさくなってきて、収拾がつかなくなりはじめた。
「どうぞ。お待たせ」
開いたドアの端から、幼い顔が覗いた。
「おじゃまします」
靴を脱ぎ、さっきまで少女が履いていた赤いスニーカーの横に並べた。小さな玄関の左端にはシューズボックスに入りきらないのか、ゴツめの黒い皮ブーツが、番人みたいに居座っていた。
ユニットバスのドアと洗濯機の間を通り抜けると、薄暗い空間が現れた。狭いキッチンスペースは、生活感をあまり感じさせない。小さな白い冷蔵庫と、赤いヤカンを火にかけているガスコンロがあった。
「そこら辺に座ってて。インスタントのコーヒーでいい?」
「ありがと」
キッチンの先が、彼女の部屋だった。全体的なモノトーンのイメージは、彼女の好みなのかもしれない。厚手のカーテン、ベッドシーツ、大きめの枕の落ち着いた赤色が、センスの良さを物語っている。
濃いグレーと黒色の大きなチェック柄をしたラグカーペットの上に座り込んだ。ベッドを背もたれにすると、目の前に小さなテレビとオーディオが、金属パイプ製のラックの上に置かれているのが目に入る。
テレビの上の壁には、一メートル角ほどの赤いビニール製の壁掛けフォトフォルダーがあり、たくさんのポストカードが挿してある。描いてあるモノは全部バラバラだったが、どれも洒落ていて、ハズレはなかった。
彼女がやってきた。
「どうぞ」
揃いの真っ白なマグカップ。スティック砂糖とミルクが二つずつ、シンプルなスプーン一つが乗っかった白いカップソーサー。正方形のガラステーブルの上が、それらに占領されてしまった。
「いただきます」
この頃の僕は、コーヒーをブラックで飲めないでいた。砂糖とミルクを一つずつ入れる。かき混ぜるスプーンの音が、やけにキレイだ。
僕の左側に、少し間を空けて彼女が座った。
彼女は、薄いグレーのフルジップパーカーを全開にして羽織っていた。抱えこんだ両膝の上に、形のキレイな顎を乗せて、なにも映していないテレビを正視している。
「コーヒー、飲まないの?」
僕の問い掛けには答えない彼女の声が、胸の奥底に浸透してくる。
「ごめん・・・。少し、一緒にいて・・・」
その一言で作り出された沈黙は、苦痛ではなかった。静寂の中では、頭の中の声が異常にうるさい。
止まっていた時間を揺らす彼女の小さなため息が、部屋の空気に混ざって消えた。
「ここの管理人って、住んでる人たちにすごく嫌われてるの」
「そうなんだ?」
「うん。普段からよくもめてるみたい・・・。この階の人が、廊下で大声をだして怒鳴ってるときもあったし・・・」
「・・・・・・」
「今朝、一階の掲示板に、”管理人殺す”って書いた紙が貼ってあって、ホントに怖かった・・・」
飲みかけたコーヒーは、これ以上喉を通っていきそうになかった。
中身が半分ほどになったマグカップと、一口も飲んでもらえないもう一つのマグカップ。静かに並んだ二つの距離は、僕と彼女と同じで、少し間が空いていた。
「ホントに、怖いの・・・」
半分が透けてしまったような弱々しい声。なんの了解も得ず、即席で作り上げた少女のイメージと、目の前の彼女には大きなギャップがある。気持ちはぐるぐると回りながら、それでも彼女から離れようとしない。僕は、その事実を素直に受け入れた。
膝を抱えたまま、彼女は静かに僕のほうへ顔を向けてきた。さっきまで顎のあった場所に、赤い髪から覗いた左耳を乗せている。とても自然な目線が、少女の幼い表情に似合っている。蛍光灯の光のせいで、きめの細かい肌は白みを増している。
「よく、するの?」
「えっ?」
「ナンパ。よく、するの?」
「実は、初めて」
「やっぱり」
膝の上の笑顔が、本当に幼い。
「ナンパしていいかなんて聞かれたの、初めて」
「ごめん。おかしかった?」
「ううん。なんか、良かった」
「そっか。じゃあ、初ナンパ成功かな?」
「もう、部屋に上がりこんでるし・・・。上出来じゃないでしょうか」
出会ってから初めて、まともな男女の会話が成立した。
それからは、お互いの警戒心を最小限に抑えて、自分たちのことをしゃべり合った。
マンションの管理人が、細かいことにイチイチうるさいこと。
ベランダの壁に、布団をかけて干していたら注意されたこと。
美容と健康のために飲んでいる通販の野菜ジュースが、すごく不味いこと。
あまり大きくない目が、実はコンプレックスだということ。
カラオケが得意だということ。
あまり有名じゃない男三人組のスリーピースロックバンドのファンであること。
彼女が教えてくれることの全てが、決して忘れてはならない、とても大切なことになっていく予感がした。
僕は、今日この街に来た理由を話した。
大学卒業後に就職した会社を辞めたこと。
その後、再就職した運送会社が、来月いっぱいで廃業すること。
今住んでいる社員寮を出なければならないこと。
さっき、駅前の不動産屋で2DKの部屋を契約したこと。
コンビニの前に立っていた女の子が気になっていたこと。
「実は、わたしも少し気になってた」
彼女の口からこぼれた“わたし“という一人称は、彼女が一人の女性であることを認識させてくる。
「警察の人たち、帰ったかな?」
彼女は立ち上がって、赤いカーテンに隙間を作り、そこから覗きこんだ。
「ここからじゃ、なにも見えなかった」
「そっか」
ゆっくり笑う彼女が、さっきとは違う距離で、僕の左側に戻ってきた。
グレーのパーカーが僕の左肩に触れてくる。赤いサラサラが、心地よく頬に当たる。
「ありがと」
「なにが?」
「一緒にいてくれて」
止まってしまいそうな時間の中に、二人はいた。
ほんの少し、左を向いただけで、彼女の髪の感触が唇から伝わってくる。
銀色が鈍く光るピアス。震えそうになる右手で、少しだけ触れてみる。左耳の感触は、期待通りのものだった。
指の隙間をすり抜ける、しなやかな赤い髪。
半分閉じられた視線は、その様子とは反対を向いている。
長いまつ毛が閉じられた。そして、スローモーションで開いていく。
僕を見つめる深みを増した漆黒の瞳が、完全に時間を止めた。
全ての雑音が途切れた完璧な世界で、僕と彼女は初めてのキスをした。
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最初の印象は、こんな感じ。
歩いて向かう駅前のコンビニの前に、彼女はいた。スラッとした立ち姿の少女。一応、拒絶はしてみたが、僕の視界に強引に入り込んでくる。
できるだけ意識はしていないフリをして、コンビニの自動ドアをくぐった。温められた缶コーヒーと、メンソールのタバコだけを買った。すぐに、外に出た。
タバコのパッケージフィルムを剥がして、内側の銀紙を引き抜く。フィルムと銀紙を手の中で丸めて、ゴミ箱へ向かった。
少女は、まだそこにいた。
夜になってまだ間もなかったが、9月の空気は生ぬるさをなくしている。
白地のシャツに、カラフルなプリントが派手だった。短い袖から伸びた細い腕が、シャツよりも白く見えた。
クシュン。
抑えきれなかったくしゃみ。少女の赤いショートカットが、サラサラと揺れた。
「だいじょうぶ?」
思わず出てしまった言葉が、彼女との最初だった。
不審なものを見る少女の視線が、僕をとらえた。視線はそのままに、自身の肩を力強く抱き締めた少女の腕は、細く、不自然なほどの白色だ。
「さむっ・・・」
初めて聞く彼女の声に、一瞬で、全身の血液が動きを止めた。思わず差し出した手の中の缶コーヒーは、僕のものでなくなった。
「ありがと」
一切の感情を伴わない言葉とは裏腹に、少女の長いまつ毛は、優しく伏せられていた。
薄い胸の前で、大事そうに両手で抱えられた小さなスチール缶。二回目の「ありがと」と一緒に、僕の元へ戻って来そうになった。
「いいって。あげるよ」
「ありがと」
小さく笑いながらの三回目は、僕には完璧すぎた。
白く細い指が、プルトップを器用に持ち上げた。赤い髪を少しだけ払い、小さな缶を大事そうに両手で抱えながら、ゆっくりと飲みだした。
僕の視線と心は、彼女を離さない。僕は、それを拒絶しなかった。
「はい」
少女から差し出された缶を受け取った。半分だけになったコーヒーのぬくもりなのか、彼女の体温なのかはわからない。
そのぬくもりがあるうちに、僕は一気に飲み干した。
「こんなところで、何してるの?」
かなり不自然な言い方をしてしまった。さっきの不審なものを見る視線が、また僕をとらえる。
「それって、ナンパ?」
この声。幼すぎる雰囲気を、完全に裏切っている。
「ナンパしていいの?」
これが、この時の、僕にできる精一杯の抵抗だった。
「いいよ」
また、あの声。今度は、少女っぽさも少しだけ混じっている。
僕の中で、急速に何かが積み上げられていく。そうすることで、溢れ出そうとする緊張を必死に食い止める。
落ち着いた。
頭の中で暴れていたものが、とりあえず息を潜めてくれた。
「おなか、すいてない?」
「実は、すいてる」
「なんか、食べに行く?」
「うん」
かろうじて、なにかの流れが出来かけているのに、なんの準備もできていない自分が、ひどく頼りない。
”僕たち”は、ここから歩いてすぐのファミレスに行くことにした。
不自然な間隔。不規則な速度。ぎこちない横並び。
僕は、自分の歩き方を忘れてしまっている。少しだけ早い心臓の音がうっとおしい。黒さを半分なくしたアスファルトが、やけにくっきり見えてくる。
店に着いて、案内された席に座った。平日の夜ということもあって、客は多くなかった。
「サラダ、頼んでいい?」
メニューに視線を落としたまま、彼女が訊ねてきた。
「どうぞ。なんでも頼んでいいよ。・・・・・。タバコ、吸ってもよろしいでしょうか?」
「いいよ」
「タバコ、吸わないの?」
「吸わない。タバコ、キライ」
彼女は、メニューから視線を離さずに答えた。
僕は、取り出した一本を元に戻し、メンソールのフタを閉めた。青い使い捨てライターと一緒にテーブルの隅に置いた。
「吸わないの?」
「やめる。タバコ、やめます。禁煙します」
「えぇっ!?別にいいのに」
店内の明るさの中に、白い笑顔が不自然に溶け込んだ。
二人にとって、初めての約束。しかし、それはすぐに破られるだろう。
ほとんど会話をしないまま、二人は料理を食べ続けた。二人の間に流れる空気は、ぎこちなく止まったままだった。
ほぼ正常になりつつある僕の思考能力は、冷静に状況判断をはじめている。答えは既に出ている。店を出たら、そこで終わる。
「出よっか」
期待していたものは、もう忘れた。終わるなら早いほうがいい。はじまってもいないものを終わらせる。自分でも不思議なほど、サバサバした決心ができた。
店を出て、最後になるであろうセリフを考えた。彼女に視線を向けた。
そこにあったのは、両手を口に当てた、少女の白い横顔だった。サラサラの赤い髪が、街灯の光をキレイに反射している。
真剣な眼差しの先。薄暗さの向こうに、派手な赤い光がある。二台のパトカーが、静かで不気味だった。
「なにか、あったのかな?」
僕の声は、少女に届いていなかった。少女は、赤い光に向かって歩きはじめた。黙ったまま歩くスピードは、かなり速い。
僕は小走りで追いかけた。すぐに追い付いて、声をかけた。
「どうした?」
真剣な横顔は、こちらを見ようとしなかった。
「多分、あれ、うちのマンション・・・」
「えっ?」
二人の警察官がマンションの入口にいる。一人は無線でなにか話している。少女は歩く速度をゆるめず、もう一人の前まで早歩きを進めた。
「ここの入居者なんですけど、なにかあったんですか?」
派手なバックプリントのシャツに、細く黒いパンツの後ろ姿。華奢な体つきには不釣り合いな、堂々とした口調だった。
「さっき、ここのマンションの管理人が、金属バットを持った男に襲われたんですよ。幸いなにもケガはなかったんですけど、そこの壁のタイルがバットで割られてしまったみたいですね」
グレー色の十センチメートル角ほどのタイルが、床の上で割れている。壁に刻まれた、タイルの剥がれ跡が生々しい。
「不審な男を見かけませんでしたか?」
警察官の問いかけにすぐには答えず、少女は僕を振り返った。僕は、思わず、首を大きく横に振っていた。
少女は、警察官のほうに体を向けなおした。
「見ていません。・・・・・・。あのぉ、部屋に帰ってもいいですか?」
「いいですよ。警察官が二人、建物内を調べてますが、気になさらないでください」
「はい。ありがとうございます」
軽く頭を下げ、それから僕を振り返った。何かを決心したような目で、こちらを見ている。僕は、軽く首をかしげた。
少女は目をつむり、小さく頷いた。
「中に入っていいって。行こっ」
少女に言われるまま、マンションの中に入っていく後ろ姿を追いかけた。警察官の前を、軽く会釈しながら通りすぎた。
四階に向かうエレベーターの中、少女は扉の上の光る数字を見つめている。この狭苦しい空間に、普段は全く気にならない機械音がやけに響いてくる。
エレベーターが静かに到着した。音もなく開いた扉をくぐり、少女は右の方向に歩いていく。僕も、それについていく。
奥から二つ目のドアの前で、少女の足が止まった。
「五分。待ってて」
白い手のひらを僕に見せながら、黒いパンツの前ポケットから鍵を取り出した。
静かだ。
耳をすましても、音がほとんど聞こえてこない。廊下の壁にもたれて、状況を整理しようと試みた。
コンビニで見かけた少女と、ファミレスでご飯を食べて、たった今物騒な事件があったマンションの中にいる。
そして、一人、廊下で待たされている。
名前も知らない少女の部屋の前で、ひどく現実味を失った感覚と、薄っぺらい期待感が上手くまとまらない。頭の中の独り言がうるさくなってきて、収拾がつかなくなりはじめた。
「どうぞ。お待たせ」
開いたドアの端から、幼い顔が覗いた。
「おじゃまします」
靴を脱ぎ、さっきまで少女が履いていた赤いスニーカーの横に並べた。小さな玄関の左端にはシューズボックスに入りきらないのか、ゴツめの黒い皮ブーツが、番人みたいに居座っていた。
ユニットバスのドアと洗濯機の間を通り抜けると、薄暗い空間が現れた。狭いキッチンスペースは、生活感をあまり感じさせない。小さな白い冷蔵庫と、赤いヤカンを火にかけているガスコンロがあった。
「そこら辺に座ってて。インスタントのコーヒーでいい?」
「ありがと」
キッチンの先が、彼女の部屋だった。全体的なモノトーンのイメージは、彼女の好みなのかもしれない。厚手のカーテン、ベッドシーツ、大きめの枕の落ち着いた赤色が、センスの良さを物語っている。
濃いグレーと黒色の大きなチェック柄をしたラグカーペットの上に座り込んだ。ベッドを背もたれにすると、目の前に小さなテレビとオーディオが、金属パイプ製のラックの上に置かれているのが目に入る。
テレビの上の壁には、一メートル角ほどの赤いビニール製の壁掛けフォトフォルダーがあり、たくさんのポストカードが挿してある。描いてあるモノは全部バラバラだったが、どれも洒落ていて、ハズレはなかった。
彼女がやってきた。
「どうぞ」
揃いの真っ白なマグカップ。スティック砂糖とミルクが二つずつ、シンプルなスプーン一つが乗っかった白いカップソーサー。正方形のガラステーブルの上が、それらに占領されてしまった。
「いただきます」
この頃の僕は、コーヒーをブラックで飲めないでいた。砂糖とミルクを一つずつ入れる。かき混ぜるスプーンの音が、やけにキレイだ。
僕の左側に、少し間を空けて彼女が座った。
彼女は、薄いグレーのフルジップパーカーを全開にして羽織っていた。抱えこんだ両膝の上に、形のキレイな顎を乗せて、なにも映していないテレビを正視している。
「コーヒー、飲まないの?」
僕の問い掛けには答えない彼女の声が、胸の奥底に浸透してくる。
「ごめん・・・。少し、一緒にいて・・・」
その一言で作り出された沈黙は、苦痛ではなかった。静寂の中では、頭の中の声が異常にうるさい。
止まっていた時間を揺らす彼女の小さなため息が、部屋の空気に混ざって消えた。
「ここの管理人って、住んでる人たちにすごく嫌われてるの」
「そうなんだ?」
「うん。普段からよくもめてるみたい・・・。この階の人が、廊下で大声をだして怒鳴ってるときもあったし・・・」
「・・・・・・」
「今朝、一階の掲示板に、”管理人殺す”って書いた紙が貼ってあって、ホントに怖かった・・・」
飲みかけたコーヒーは、これ以上喉を通っていきそうになかった。
中身が半分ほどになったマグカップと、一口も飲んでもらえないもう一つのマグカップ。静かに並んだ二つの距離は、僕と彼女と同じで、少し間が空いていた。
「ホントに、怖いの・・・」
半分が透けてしまったような弱々しい声。なんの了解も得ず、即席で作り上げた少女のイメージと、目の前の彼女には大きなギャップがある。気持ちはぐるぐると回りながら、それでも彼女から離れようとしない。僕は、その事実を素直に受け入れた。
膝を抱えたまま、彼女は静かに僕のほうへ顔を向けてきた。さっきまで顎のあった場所に、赤い髪から覗いた左耳を乗せている。とても自然な目線が、少女の幼い表情に似合っている。蛍光灯の光のせいで、きめの細かい肌は白みを増している。
「よく、するの?」
「えっ?」
「ナンパ。よく、するの?」
「実は、初めて」
「やっぱり」
膝の上の笑顔が、本当に幼い。
「ナンパしていいかなんて聞かれたの、初めて」
「ごめん。おかしかった?」
「ううん。なんか、良かった」
「そっか。じゃあ、初ナンパ成功かな?」
「もう、部屋に上がりこんでるし・・・。上出来じゃないでしょうか」
出会ってから初めて、まともな男女の会話が成立した。
それからは、お互いの警戒心を最小限に抑えて、自分たちのことをしゃべり合った。
マンションの管理人が、細かいことにイチイチうるさいこと。
ベランダの壁に、布団をかけて干していたら注意されたこと。
美容と健康のために飲んでいる通販の野菜ジュースが、すごく不味いこと。
あまり大きくない目が、実はコンプレックスだということ。
カラオケが得意だということ。
あまり有名じゃない男三人組のスリーピースロックバンドのファンであること。
彼女が教えてくれることの全てが、決して忘れてはならない、とても大切なことになっていく予感がした。
僕は、今日この街に来た理由を話した。
大学卒業後に就職した会社を辞めたこと。
その後、再就職した運送会社が、来月いっぱいで廃業すること。
今住んでいる社員寮を出なければならないこと。
さっき、駅前の不動産屋で2DKの部屋を契約したこと。
コンビニの前に立っていた女の子が気になっていたこと。
「実は、わたしも少し気になってた」
彼女の口からこぼれた“わたし“という一人称は、彼女が一人の女性であることを認識させてくる。
「警察の人たち、帰ったかな?」
彼女は立ち上がって、赤いカーテンに隙間を作り、そこから覗きこんだ。
「ここからじゃ、なにも見えなかった」
「そっか」
ゆっくり笑う彼女が、さっきとは違う距離で、僕の左側に戻ってきた。
グレーのパーカーが僕の左肩に触れてくる。赤いサラサラが、心地よく頬に当たる。
「ありがと」
「なにが?」
「一緒にいてくれて」
止まってしまいそうな時間の中に、二人はいた。
ほんの少し、左を向いただけで、彼女の髪の感触が唇から伝わってくる。
銀色が鈍く光るピアス。震えそうになる右手で、少しだけ触れてみる。左耳の感触は、期待通りのものだった。
指の隙間をすり抜ける、しなやかな赤い髪。
半分閉じられた視線は、その様子とは反対を向いている。
長いまつ毛が閉じられた。そして、スローモーションで開いていく。
僕を見つめる深みを増した漆黒の瞳が、完全に時間を止めた。
全ての雑音が途切れた完璧な世界で、僕と彼女は初めてのキスをした。
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