発達障害者の世界はフラクタル構造だと予想できる。自分は世界全体を含み、他者も世界全体を含む。世界は自己であり、自己と世界が分離されていない。また他者も自分と同じ世界観、世界構造を持っていると考えている。これは潜在的で、具体的には意識はしていないだろう。しかし、顕在化される場合もあるのであって、仏教の曼荼羅図は、この世界観に囚われた者が描いた図である。このフラクタル構造の世界は物質的世界に近いといえるが、さらに物質以前の世界である。この非三次元的な構造は、無意識の構造であり、通常、「私」(生物という意味で)は反証によって、この構造から逃れている。この構造は非生物の構造であり、「私」が非実在となる構造だ。反証機能が障害されると、この構造に囚われてしまうということだ。
このフラクタル構造に自分を置くと、世界に違いが在る事、反証される事は不思議であり、それは恐怖となって顕在化するだろう。世界は最適化されているはずだからだ。子供はみな、世界の違いに驚き、反証を受ける事が恐怖になってしまうものだ。子供はまだフラクタル構造の世界に在って、反証機能が発現していないか、抑制されている。
世界はフラクタル構造が原型であるとしても(つまり不確実性によって物質は変化の可能性を持ったのであって、不確実性の無い世界は、物質の出現以前の世界であり、それは世界でさえない)、このフラクタル構造は潜在的で、現実に現れても、あまり気にしない。子孫が似ているという事や、種がほぼ同じである事はフラクタル構造の一つの示唆だが、当たり前のように感じている。同じではなく、似ているのは、「私」の反証即ちイレギュラー性が加えられているからだ。このイレギュラー性は世界のフラクタル構造的な均質化を阻んでいる。原「私」と無意識は対立する性質を持つ。これはイレギュラー性や不確実性が、フラクタル構造と対立する性質を持つのと同じだ。この対立は実在と非実在の対立である。
部分が全体を含むという思想は実はほとんどの人が持っているが、反証が加えられて真に信じられてはいない。例えば、善行は報われるという考え方。悪は滅ぼされるという考え方。世界公正仮説は、このフラクタル構造が潜在している事を示す。黒猫が通ったら悪い事が起きる、あるいはゲンをかつぐというのも同じだ。世の中の一見して些事の事象に、将来の大事についての予見的な内容が含まれていると考える事もそうだ。しかし、これは実在しないとは言えない超常的な現象である。しかし、これらを真に信じる事は魔法主義につながり、「私」の非実在に導く思想だ。
フラクタル構造の世界観を顕在化させている場合(あるいはフラクタル構造の世界観が潜在していて顕在化しようとしている場合)には、原理主義に陥る。世界は何らかの原理によって最適化されていて、全ての部分も、重複する部分も、均質で同一な全体性を持つはずだからだ。それが無意識支配である。物質以前の世界を求める。このような無意識の世界は、「私」は非実在である。世界は「原理」によって最適化される。又は最適化されなければならない。従って主体性は失われる。自由意志は否定され、自己責任も失われる。道徳も存在しない。道徳は「私」の実在によってのみ顕現する。
宗教や共産主義の原理主義は、この反証機能の障害が顕在化している。科学も神と同じで、原理を科学に求めている。つまり科学も神秘主義も同じく合理主義のカテゴリーであり、科学も神秘主義も信仰のカテゴリーであり、世界は原理によって最適化されているという仮定もしくは幻想に基いた思想だ。科学は、この原理主義を現実に仮定しているのだが、世界は原理だけでは動いていない。もし原理主義で意思決定を考えてしまうと、自由意志もない事になる。しかし、我々は必ずしも最適化された選択を行うわけではない。
「私」(生物)とは反合理主義(合理主義は物質性であり、原始的な生物性だ)であり、反同一主義であり、反原理主義であり、不確実性であり、唯一無二のイレギュラー性であり、反証し続ける者であり、調整し続ける者であり、道徳であり、道徳を現実に顕現させる者である。このような自己宣言的な文言に対しても反証を加える者だ。
なお、このフラクタル構造は意識の線形論理で考えた構造であって、モデルに過ぎない。

