朝、娘からSOS。急に熱が上がり節々も痛む、もしもインフルエンザなら子供に移るので検査のために大至急病院へ行きたいという。自分一人ならネギ味噌汁飲んで汗をいっぱいかいてウダウダしててもいいのだろうが…今の彼女は、そうはいかない。わたしは、まだ深夜食堂の紹興酒が残っていたが、付き添いのために病院へと急ぐ。結果として、インフルエンザではなかったが、二時間の点滴の間、ご機嫌なモンスターと病院内をウロウロアルアル探検隊。患者様(最近の医療機関ではこうお呼びするらしい)がどこの科でも溢れている。こちらの「気」を取られそうで恐ろしい。病院は、健康の有り難みを再確認するところでもある。ゴメさんが言ってっるように、前日まで仕事をして、気の合う仲間と旨い酒を交わして死ねたらいいと誰氏も願うが、まぁ、シナオリ通りには上手くいかないだろう。酔って転んでタンコブ位なら笑い話にもなるが…先日、仲間の一人がこう呟いた。若い時は身体を労わることなど無く、仕事と遊びに明け暮れてたが、相方が定年となり、父や兄を亡くし、自分も五十を過ぎて考えが変わった。残された家族が支え合い、楽しく生きてくために、健康でありたいと思うようになったと。共感。私の母が五十の時には、私の祖父母である彼女の両親は既に他界していたが、高齢化社会となり、五十過ぎて自分の身体の衰えに気付きはじめても、老いた両親を抱え、介護に負われている方々が増えている昨今。ホームヘルパーをしている妹は、介護の状況は様々。マンパワーはまだまだ足りず、家族の協力が無ければ大変だと言う。身体だけではない。先月、母が内装業者からぼったくられた。しかし、悪い人間がいるもんだ。五十にして天命を知るとは、紀元前3世紀の孔子のお言葉。現代、科学が進歩し、生活が豊かになり、寿命も延びたが、あの時代よりも人は幸せになったのだろうか。天命を知るとは、自分の人生の後始末は自分でつけよということ。元気なうちに身辺整理をしつつ、今を愉しみ日々過ごせねば、おそらく悔いが残る。