「老いゆえに遊びをやめるのではない 遊びをやめるから老いるのだ」なるほど・・・ 二郎先生がこうもお元気なのは、深夜の遊びを愉しまれているからにほかならない 昨晩は北風が冷たくてね 二郎先生と武田とツッシーとで以前から気になっていた、ぷんぷくまるの「マーラー鍋」に挑戦しようということになった 異色コンビである二郎先生と私が窓際のいつもの席に着くと、素っ気なく「いつものですね?」との掛け声の後「アツアツの紹興酒ピッチャー」が運ばれてくる あ~、しあわせ そこへ13種類の具材をしっかり炒めた鍋がドーンとテーブルに置かれてさすがの私も言葉が出なかったが、しかし全部平らげた(笑) 寒い冬の鍋、一人より二人、みんなで突くと旨さが増すのは何故でしょう
先日、朝日新聞のニッポン人脈記「親になる 子になる」の記事に痛く感動したので、そのひとつを転記します→ 棺の中の母に生前の面影はほとんどなかった。4月半ば、順番がやっと回ってきた宮城県気仙沼市の火葬場で、としえさんは人目をはばからずに泣いた。3月11日の東日本大震災。父と母は自宅近くの高台にある緊急避難所に逃れた。そこにも津波が襲いかかる。両親が一瞬で消えてしまった。としえさんは22歳の時、急性骨髄性白血病を発症した。1年後、骨髄バンクで白血球の型がほぼ一致する提供者が見つかる。だが、移植を受けたら、子どもができなくなるだろう、と医師に告げられた。病室で一晩中泣いた。1995年に移植。治療の副作用でのどがはれ、眠れなかった時、母はずっと手を握っていてくれた。その後、同じように骨髄移植を受けた正弘さんと出会う。2001年に結婚し、福島県で新生活をスタートさせた。里親になることを提案したのは、正弘さんだった。同級生から子どもの運動会の話などを聞くうちに、自分も育てたいと思うようになった。血のつながっていない子を愛せるだろうか。としえは最初、自信がなかった。でも、3人の子がいる姉が思春期の子育てに悩む姿を見て思い直した。血縁があろうがなかろうが、いろいろなことを乗り越えてつながっていくのが家族なんだ。夫婦は昨年、児童養護施設にいた3歳の男の子を里子として引き取った。初めは表情がなく、としえさんを「てんてい(先生)」としか呼べない。それが1カ月もすると、笑顔で「おとうちゃん、おかあちゃん」と抱きついてくる。大きな余震がきた時は、床をさして教えてくれた。「ここのしたに、かいじゅうさんがいて、あばれてるんだよ」今、彼女は思う。何があっても乗り越えられるように、両親が逝く前にこの子を授けてくれたのかもしれない。これからも一緒に笑ったり泣いたりしながら、守っていきたい。両親が私を守ってくれたように。
昔は里親里子はごく当たり前にあったし、知らない親爺に叱られたり虚無僧みたいな怪しいひとに祝儀を渡したり、貧しくても人間らしい振る舞いが至る所にあった 仕事場でもしかり 「旦那」はサンスクリット語ダーナの音写で、人様に施すという意味 落語「百年目」をご存じ? 「昔、天竺に栴檀(せんだん)という立派な木があり、その下に南縁草(なんえんそう)という汚い草が沢山茂っていた。目障りだというので、南縁草を抜いてしまったら、栴檀が枯れてしまった。調べてみると、栴檀は南縁草を肥やしにして、南縁草は栴檀の露で育っていた事が分かった。栴檀が育つと、南縁草も育つ。栴檀の”だん”と南縁草の”なん”を取って”だんなん”、それが”旦那”になったという。」大旦那さんが道楽を覚えた大番頭を呼んで、こんな説諭をするのであるが、人の世は持ちつ持たれつ 酒も差しつ差されつ こんな素敵な話にも共感できない時代になってしまったら、ちと恐ろしい気がする