週末は、陽だまりの中で、ミスターHG(これからは彼をこう呼ぶ)からお借りした、時のひと、古賀茂明さんの著書を熟読した 日本の中枢である政治経済行政が、ここまで危機状態にあると感じていた国民がどれほどいるのでしょう・・・ 思えば、1867年10月 京都の二条城での大政奉還 その後日本は明治維新へと大きな歴史的転換を図った、あの時の熱き情熱はどこへ失せてしまったのだろうか 書の中に、学歴社会がもたらした官僚の特性のひとつに「過ちを認めない」というのがある 秀才の特性と言ってもいい 常に褒められていた秀才は、怒られることと批判されることを極端に嫌う だから、批判のもととなる「過ち」は、絶対に認めたくはないのだ 自分は優秀だから間違えるはずはないという驕り 仮りにそれに気づいたとしても、何とか糊塗するだけの知恵を有している彼らは、官僚特有の「レトリック」を駆使して決して過ちを認めない これは官僚の「無謬性神話」・・・とあったが 久々に「無謬」という言葉を目にした 要するに誤りを犯さないことを重視するために何もやらないことがいい、ということである あぁ、現代の坂本竜馬なる人物は何処に・・・
内田先生がある媒体からアンケートを受けた、その内容文が私の疑問を解いてくれた Q,日本の若者たちはなぜ、社会に対して何かを訴えたり行動したりしないのでしょうか? A,自分のために戦う人間は弱く、守るものがいる人間は強い これは経験的にはきわめて蓋然性の高い命題である 「オレがここで死んでも困るのはオレだけだ」と思う人間と、「オレはこんなところで死ぬわけにはゆかない」と思う守るものがある人間では、ぎりぎりの局面でのふんばり方がまるで違う それは社会的能力の開発においても変わらず、自分ひとりの立身出世や快楽のために生きている人間は自分の社会的能力の開発をすぐに止めてしまう 「まあ、こんなもんでいいよ」と思ったら、そこで止る でも、他人の人生を背負っている人間はそうはゆかない 人間は自己利益を排他的に追求できるときではなく、自分が「ひとのために役立っている」と思えたときにその潜在能力を爆発的に開花させる これは長く教育現場にいた人間として骨身にしみた経験知である う~ん、現代の病ともいべき人間関係の希薄さか、家庭の崩壊ゆえか・・・この大震災で絆とか何かに目覚めることができればと願うのだけど
追伸 メディアテークで開催されている、尊敬する三浦敏先生の絵画個展「旅景」 フィレンツェからローマへの道すじ、トスカーナ地区の農園の広がりの中 小さな町や、糸杉のある白い家、山並みに雲のゆらぎが写り込む陰影 印象深い景色が忘れられず、モノトーンの絵を描き始めたのが2001年の秋・・・だそうです 平和な旅景にどうぞこころ休めてみてください(明日まで)