「何なんだ、これは?」、「ありえねーだろ!?」、「あまりにも漫画チック!」――。といった違和感も、わずかの間。いつの間にか、作品の世界に引き込まれている。台湾作品「総舗師 メインシェフへの道」を見た。監督は陳玉勳(チェン・ユーシュン)。第26回東京国際映画祭の「台湾電影ルネッサンス2013」全6作品中のひとつとして上映された。
「何なんだ、これは?」、「ありえねーだろ!?」、「あまりにも漫画チック!」――。といった違和感も、わずかの間。いつの間にか、作品の世界に引き込まれている。台湾作品「総舗師 メインシェフへの道」を見た。監督は陳玉勳(チェン・ユーシュン)。第26回東京国際映画祭の「台湾電影ルネッサンス2013」全6作品中のひとつとして上映された。
主人公の少女、小婉(シャオワン)は、今は亡き伝説の名シェフの娘。父親は娘に自分の技を継がせたかったようだが、シャオワンにその気はなかった。第一、自分に調理人の才能があるとは思えない。そして都会に出た。はたから見れば無理と思えるのだが、芸能界での成功を夢見ていた。
ものごとを深く考えない性格。ボーイフレンドの借金の保証人になってしまい、「恐いお兄さん」2人に返済を迫られることに。そこで、母親のところに逃げた。母親は小さな食堂を経営。しかし夫、つまりシャオワンの父とは違い、料理の才能はまるでない。母親も借金に苦しんでいた。
ある日、「やっと初恋の人と結婚できる」という高齢の男女がやってきた。シャオワンの父親が作った料理を食べたことがある。すばらしかった。2人の思い出の味だ。結婚披露宴で、是非、味わいたいと切望。父親は他界して、その料理は作れないと言うと、2人は大いに落胆した。
シャオワンはおちゃらけてはいるが、気立てのよい娘だ。思わず同情して「なんとか作ります」と約束してしまった。2人は感謝しつつ、去って行った。シャオワンはさらに、台湾全土の調理師が腕を競うコンクールが開催されることを知る。賞金で借金も返せると、出場を決意した。
シャオワンとその周囲に集まり残るのは、なぜか「欠陥人間」ばかりだ。スクリーンを眺めながら心のなかで何度も「ダメだ、こりゃ」とつぶやいてしまう。それでもシャオワンはめげない。名シェフとして父親と並び称されたが、「料理で報酬をもらうべきではない」との信念からホームレス生活をしている男性に教え導かれたこともあり、「美味しい料理を作ることの意味」に目覚めていく。
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陳監督は、「熱帯魚」、「ラブゴーゴー(愛情来了)」で1990年代の台湾映画を牽引。「喜劇王」と呼ばれた。しかし、16年間にわたり映画から離れ、テレビCMの仕事をしていた。その間の事情について「台湾映画はテレビに人気を食われていた」、「生活のためにCMを撮っていた」と率直に認めた。
映画人としての空白の時期を「テレビCMで人気が出て、あっという間に十数年が経ってしまった。気持ちとしては、2、3年ぐらいなんですけど」とも語った。しかし、その時期は「観客が何を求めていたか、探索していた時期でもあった」という。台湾の人と社会の移り変わりに感覚を研ぎ澄ませていたわけだ。
台湾ではこのところ、食べ物をテーマにした映画作品が多いが、「宴会料理」を題材にした理由については、自分自身の思い出から説きはじめた。「私が子どものころ、四十数年前の台湾は、まだ貧しかった。宴会は嬉しかった。美味しいものを食べられて、サイダーも飲めた」という。
今でも宴会は好きだという。久しぶりに会った知人と語りあえるなど、人と人の感情面の交流ができるからだ。そして、「宴会」や「料理」が台湾の大切な文化と、改めて強く感じるようになった。ただし、その「宴会文化」が変容している。それも残念な方向に。
宴会とは、まごころをこめて、お客さんを「おもてなし」するものだった。宴会とは、なにか祝い事のときにするもの。だから、まねかれた客も心を込めて祝った。料理する者は最高の腕をふるった。もてなす側が皆で、料理を作ることも多かった。
料理を作り、それを味わうことは、人と人の心を通い合わせることだった。それがだんだん、すたれてきたように思えた。今では家庭で宴会をする時にも、電話1本で注文。それも、料理の質にこだわるのではなく、大切なのは「お値段」だ。「美しい宴会文化が、そう簡単に消えてよいのか」。それが陳監督の問題意識だった。
陳監督のことだ。深刻なテーマを、重く投げかけるのではない。軽妙なタッチで物語を展開させる。観客を大いに笑わせ、楽しませ、あくまでも結果として「台湾の宴会文化を見直さねばならないかな」と気づかせる。つまり、極めて上質の娯楽作品に仕上がった。
「大爆笑」の連続というわけではない。むしろ「ちょっとしたギャグ」がちりばめられている。常識的な予想をちょっとだけはずしたギャグの連続がボディー・ブローのように効く。そして観客は、作品の世界に「どっぷり浸かる」ことになる。
話の本質にはあまり関係なさそうな人物が、実は重要な役割をになっている。油断も隙もない。ただ、物語の終盤に向けて、それまでのエピソードがばたばたと「収束」していくのは快感だ。
もうひとつ、触れておきたいことがある。作品の中でひとりだけ、最後の最後まで「いやな奴」として描かれた人物がいる。しかも、最後まで“罰せられる”ことはなく、成功者となる。この作品を見終わった直後には、「この描き方でよいのか」と疑問を感じた。
しかし、よくよく考えて分かった。陳監督は「世俗的、表面的ことしか分かっていない者は、勝手に満足させていればよろしい。大切なことは、自分自身が本物の価値に気づくことだ」とのメッセージを込めたのではなかろうか。それで、納得がいった。
話は変わるが、日本の落語には「考え落ち」という技巧がある。噺(はなし)を聞いたその場で大笑いするのではなく、「あれはいったい、どういうことなんだ?」と聞き手に疑問を持たせる。極端な場合には、家に帰ってもまだ分からない。気になってしかたない。時間がずいぶんたってから分かり、ひとりでいきなり大笑いする。
話芸とは本来、その場かぎりで終わるはずだが、演じ終わっても気にかけてもらえるように“仕掛け”ておく。そんな高度な技巧だ。
陳監督も同様に、作品を見終わってから、効果を発揮する「仕掛け」をほどこしたことになる。大いに笑い、大いに楽しむ。そして見終わった後も考えさせられる。考えさせられることで、作品の楽しいシーンが脳裏に再びよみがえって、改めて楽しめる。陳監督の技が光る作品だ。(写真はサーチナ編集部撮影。右側が陳玉勳監督)(編集担当:如月隼人)
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