わかりました。わかりやすく書いていただけたので、確信しましたが、あなたは嘘つきです。

そしてそれを正当化するために哲学書を読んでいる。

つまり、失礼を承知でいいますが、あなたに愛知者 philosopher を名乗る資格はありません。

私はあなたとの長年の付き合いに思い入れがあったので、あなたの中には「真理への誠実さ」があると信じていました。

つまり、あなたが「愛知者である」と信じていました。

ですが、これでもう完全に論破されましたね?

(異論あればどうぞ。いくらでも付き合います。あなたの哲学や愛知の精神 "は" もう完全に論破されました。ご自身でも悟ったのではありませんか? その「論破」が、あなたの本心を照らし出すようなある種の「鏡」として、あなたの人生があなたにとってさらに味わい深いものとなってくれたら私も本望です。)

 

 さて、あなたに「真理への誠実さ」はありませんでした。しかし、ある観点においてはむしろ「真理への誠実さ」などというものほど胡散臭いものは他にない。そのように考えることもできるでしょう。実際、あなたはご自身の生き方を——それがたとえ自己欺瞞であったとしても、無理矢理こじつけているだけであったとしても!——「肯定」している。それは(あなただけでなく私にとっても・・・)「美しく、魅力もある」と思います。あなたには文学的な美しさは感じますが、哲学あるいは愛知の精神は、まるで徹底されていません。まあ、私が異常だというのもあるのでしょうが・・・。そして、当然のことながら、貴方の美意識は貴方だけのものですから、たとえあなたが愛知者でもなんでもなく単なる自己欺瞞の死にたがりであり、そのせいで貴方が荒波に翻弄されていくこと——しかし、ときには安息もあるでしょう——それをただただひたすらに味わおうというあなたの「人生という名の文学」は、そのようなものとして価値を持つのだと思います。つまりあなたはあなたという映画を見ているのです。自覚されたのならなおさらですが、もはやそれを否定することなど誰にもできません。

 

ですが、わたしがあなたを肯定するのとまったく同様に、私は絶対に嘘をつきません。嘘をつけないバカ正直な自分を見つめ直すためだけに、あえて嘘をつくことを試したことさえありました。何の意味もありませんでしたが。いいえ、これは嘘です。わたしは誠実でもなんでもなく単に執拗で完璧主義なだけです。さらにアイロニカルな立ち位置に留まることもできる。ですから、驚くべきことに、我々には非常に似通っている部分があると思います。なぜなら、私もまた、「絶対に逆らえない真理」などというものは「あってはならない」と思っているからです。これもやはり徹底的でありかつ常に再帰的に自己反省し続けているので、いわば常に矛盾、葛藤しています。そしてそんな自分をやはり愛していますし、それが人間の性なのかもしれません。

 

(なんだか頭が混乱してきてしまったのでとりあえずここまでで下書き保存しておきます・・・)

 

 

⦿ 続き

 

>何故己の人生は決定論を欲し、他人からの決定する的な数学等を嫌うのか?

>それは、忘れられない、忘れたくない大切な時間。端的に目の前に‘いる’大切な人達を肯定するには決定論は、‘都合’がよい。しかし、能動的ニヒリストには、決定論は論理的・感覚的に馴染まない。他にもありそうですが…。(とりあえず)これらのことは、反発しながらも両立できる統合‘的に’できる。

>私が貴方から見れば‘従順’にみえるのは、この為かな?と、思いましたが…。私はそもそも周りに興味が無いから、どうでもよくて、たんにただ受け入れているだけで、本当に周りがどうでもよいのだとしか思えません。

 

 この箇所なのですが(確認作業は疲れるので記憶のみに頼ることについてはご容赦ください)、私はあなたのことを従順であると思ったことは一度もありません。ですから、そのようなことを書いたこともないでしょう。それなのにどうしてそのような解釈・・・いいえ、率直に言いましょう。「書き換え」です。どうしてそのような「書き換え」がなされたのか。そして、「忘れられない、忘れたくない大切な時間。端的に目の前に'いる'大切な人達を肯定する(したい)」という想い。ここまでは私も全く同じ想いで生きているので共感する他ないのですが、問題は、どうしてそのために「決定論」を「都合がよい」ものと考えられるのか。おそらく、「決定論」と「運命論」の区別の問題だろうと推察します。なぜなら、「運命論」であれば、意味が通るからです。しかし、あなたは「決定論」だと思います。というより、やはり区別。区別がついていないのだと思います。決定論的でもあり、運命論的でもあるがゆえに、不明確な「都合の良さ」がそこには存するのではないかと思います。

 

 それから、これは経験上ほぼ確信していますが、「興味がない」は「思考停止」のための言い訳でしかなく、やはり自己欺瞞であり、愛知の精神とは矛盾せざるを得ません。しかし、上述の通り、「人生という名の文学」であるあなたの人生やあなたの存在、あなた自身はやはり(そのようなものとして)尊重されて然るべきだと思います。しかし私からすれば単なる逃避でしかありませんし、興味がないなどという言い訳を使うことが許されるのならば、私は(少なくとも今は)この世界や人生、他人。すべてに対して何の興味もありませんよ。興味がないのなら返信もしないはず、という反論は当然(オートマティックに)想定されるわけですが、それに対してはこのように応答しておきます。この返信は、いわば義務感のようなもの、あるいは、悔しさすら覚えますが、「習性」にしたがっているのでしょう。(「使命感」と呼んでも差し支えないと思いますが、今は謙虚でいることを選択してみました。)

 

 まあ、もうこれ以上特に説明は必要ないと思います。けっきょく私だけが唯一正しく、他の人間は全員間違えている。

 

 だが、それでいい。

 

(病気の具合がひどく、ギブアップせざるを得なくなったので、これから静養に入る予定です。ということで、少しだけ感想を。)

 

貴方のこの記事を読んで、私は端的にこう思いました。

 

「貴方はもう死んでいる」

 

いいえ、貴方はまだ戦いをやめていない。勇敢な戦士のように映っています。本当はまだ死んでいない。

 

「神は言っている・・・ここで死ぬ定めではないと」

 

貴方は、無理解はあってたとしても決して嘘はついていない。そんな貴方には「愛と誠」を感じます。"ALI PROJECT" の楽曲

 

 

です。まあ、貴方は中島義道を非常に高く評価しておられるようですから、彼が「最大の問題」として執拗に強調し続けてきた、あの「死の問題」との関連で解釈していただければと思います。彼がどのようにその問題を語っているのかは知りませんが、私の言葉でその問題の問題性について語るとすれば、

 

「人はいつか死ぬ? 何を言っているんだい君は。いつだって、そう、いつだって、《いま》じゃないか。これまでもずっとそうだったじゃないか。だから、死ぬときだって《いま》なんだよ。それが、"お前はすでに死んでいる" ということとどこがどう違うのか、説明してみなさいよ!」

 

つまり、貴方もまた、(不本意ながら!)決定論的に生きている」のだと思います。「興味」や「習慣」で動くことの是非を全く問う気配がないことからも、以前自ら「死にたがり」と仰っていた(「だが、それでも貴方はまだ生きている!・・・これは私なりの貴方への愛の表現のつもりです)ことからも間違いないと思われます。

 

しかし、「不本意ながら」という但し書きをつけたのは、貴方が決定論的に生きているにも関わらず、なぜかその一方で、貴方は以前、「誰か論破してほしい」とも仰っていたからです。

 

 断言しますが、私の力を以ってすれば、また、お互いにそのための「(やや論争めいたものになりそうですが、まあ)"対話"」にリソースを割くことさえできれば、私は確実に論破できると思います。

 

 なぜなら、貴方が結局まだ生きているということ。そして、不思議な縁、あるいは偶然、いや、運命と言いましょう。そう、運命によって導かれて、必然の帰結として知り合い、一時期は交流も活発で、私はまずあなたの哲学の「正しさ」を私の言葉によって承認・証明しましたよね。覚えておられるでしょうか・・・? 貴方は、「なぜ A = A でなければならないのか?」という問いに拘り続けていたと思いますし、今でもやはり拘り続けているように思えます。あの時、貴方は喜んでいた筈です。いまでも私は貴方にとっては人生という物語の登場人物のひとりであるに過ぎないのでしょうが、それでも喜んではいたはず。そして、私が貴方のその問いへの応答として示したのは、「ただ単にそういうことにしている(されている)だけです」というような実にあっさりした簡潔なもの。あるいはあっさりとした解答でありながら、もしかすると猛烈に響いたかもしれません。あなたは正しい。本当に、"彼ら" が単なる趣味で無自覚にそういうことにして、勝手に "われわれ" の中に閉じ込めようとしている。だって、100%恣意的なことじゃないですか。そもそも数学というのはそういうものです。いや、数学自体はそうではなかったはず。誰の名言(笑)だか知りませんが、「世界は数学という文字で書かれた書物である」・・・でしたっけ。もう忘れました。雑魚のことなんていちいち覚えていられませんね!笑

 

 はい、最も愚かなのはやはり物理学でしょう。あれはカルトですよ。あまりに恣意的過ぎる。

 

 

(・・・すみません、話がまとまらず、実に読みにくい文章となってしまっていますが、許してください・・・)

 

 

 はい、本当の問題は、数学に対する余りにナイーブな信仰、そして、明らかに恣意性のある物理法則の存在への妄信。

 

(本当に、嘘つきだらけですよ・・・せいぜい自己欺瞞するくらいなら赦せますが、どうして私のような存在までこんなものを押し付けられているのか。この点に関しては少なくとも "共感" はしていただけると信じています)

 

 そして今やその単なるお約束ごとに過ぎなかったものが、科学的実証主義やパラダイムシフトというただの飾った言い訳で誤魔化し続け、数理統計学という、本来ならば純粋な数学であった筈のものを、それが数学であるということの理解もせずに応用数学という名目で勝手に用いて、この世界の在り方を姑息にも維持し続けているわけです・・・。

 

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説明:もしクーンのパラダイム説が科学の正当性を保証していると科学側が主張するのならば、批判精神を基盤とすることこそがその誠実性を担保しているはずの科学者たちが最も注力すべきは "むしろ" 反証可能性の追究であり、そのリソース配分を、少なくとも "9:1=反証:実証" くらいにはしなければならなかったはず。そうでなければパラダイム説は科学の正しさに正当性を与えようがない。それなのに、「悪魔の証明」という詭弁で誤魔化し、よくよく観察してみれば、彼らが実際にやっていることは、「科学は正しい」という妄信の下に、確証バイアスを数理統計学によって正当化し、「現にそうなっているではないか!」と醜い嘲笑ヅラで "彼らの世界観(に過ぎない、いや、もはや捏造でしかないと私は確信していますし、その説明なんか、私が(不本意ながら鍛え続けてきた・・・異常なまでの「言葉の力」・・・皮肉にも元凶であるあの聖書のヨハネ福音書の冒頭で自ら断言していますが・・・アレです。「まず初めに言葉があった」「言葉は神とともにいた」「言葉が神だった」という。そう、本当に不本意でした。ハッキリ言って、気に食わないというただそれだけの、

 

「俺はこんな世界を認めた覚えは全くない!」

 

という怒りでしたから。しかしその怒りこそが口下手だった私に異常なまでの表現力や説明力を目覚めさせたわけで、実に皮肉、実に理不尽でありながら、感謝する以外の選択肢がありません。それをありがたいことだと無理やりにでも思い込まなければ、

 

"彼らの" 神に対して殺意さえ芽生える程に私はこの世界が現実であり、場合によってはそれが現実であり真実である等というクズどもの戯言を敢えて赦すことなど到底不可能!!

 

なのですから。それに、言いたいことも言えないこんな世の中じゃあ、やっていられませんから。はい、もちろん "poison" です。

 

 

 

 

鬼塚英吉。芸名はど忘れしました笑 竹野内豊ではないことだけは確かですかね笑

 

(動画を貼り付けたので判明しました笑 反町隆史、かぁ・・・いい名前だ。この歌を "泣いている赤ちゃん" に聞かせるとやがて泣き止むというのは有名な話ですが、そりゃあそうだろう、と私は思います。まあこれでも音楽の人間なので・・・)

 

 以上でしょうか・・・まあ、この現実世界の成立の謎については完全に把握してしまったので如何様にでも語れはしますが、彼らは認めないでしょう。また、私は彼らがどうしてそんな浅はかで幼稚な思想を妄信できるのか、妄信していられるのか、その理由も知っています。これはつまり、今はそういう時代であるという、ただそれだけのことです。今はそのことだけを伝えておきます。一応、補足としての換言をひとつだけ。これは、どうやら人類の意識の進化におけるこの時代の特質だからそうなっているみたいですね。この説明は私の考えたことではありませんが、腑に落ちました。(といっても、解決したのは文脈がまったく異なる別の問題なのですが・・・)そしてその意義をも私は知ってしまいましたが・・・どれほど知っていてもまず逆らえないでしょう。多勢に無勢だし、それは、言わば「見守る者」による宇宙の意図であり計画ですから。ただ・・・

 

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もし私が自殺でもして肉体による束縛を解放すれば、ハッキリ言ってどうとでもなるでしょう。それくらいには鍛えてきたつもりです。ポテンシャルをひたすら上げ続けてきたので、神々だろうが悪霊だろうがなんだろうが、ポテンシャルが解放された私に勝てる存在などいないと確信しています。そのせいで今やほとんど廃人と化してしまいましたけどね・・・。(まあ、私がもし死んでしまったら、困るのはむしろ彼らの方なので、私が死ぬ可能性は皆無だと思います。嫌がらせはやたらしてきますけどね・・・ああ、こういう話は愛知者さんの領分ではないか・・・まあ、霊的な観点での話です。真実ですが、ご面倒をかけさせるくらいなら、読み飛ばしていただいて全く構いません。

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 つまりこの世界は物理法則によってデザインされているという、単なるキリスト教の教えを妄信し、それが現実であり真実でもあるという馬鹿げた考えをあらゆる手段で維持し続けている。それが "彼ら" です。ふつうにカルトですよ。

 

 なんだか、想定とは裏腹に、かなりの長文となってしまいました。それはきっと、貴方の愛知の精神を信じているからだと思います。ほとんどゴールまで到達しているのに、どうしてそこで立ち止まってしまうんだろう・・・そう感じたので。過去については何も知らないので色々と想像もしてしまいました。すみません。

 

では。

 

ええと、おそらく全く理解されていません。

むしろ私の方が遥かに「倫理」というものを淡白に捉えていると思います。

(思考も含めた)行動や動作の正誤や是非に関する理(ことわり)を「倫理」と呼んでいるので、通常想定されているような<それ>とは全く異なるものです。

たとえば、いま私は(少し忙しかったにも関わらず)こうしてリブログをしましたが、そこには「選択の余地」があるべきだ、とか、そういうことです。

 

限界状況というものは、あるじゃないですか。結局。

たとえば私たちは「超・魔界村」の主人公のように「2段ジャンプ」はできませんよね?

たったそれだけ、そのたったひとつの具体例だけで、私たちの行動の自由や思考の自由の大半は何者かによって極めて大きな「制限」が加えられていることが納得できます。

 

これは実際問題として否定のしようがないので、いったんは認めなければならない。

しかし、私はいまどうしても目の前のこの傷つき倒れた人に「ベホイミ」をかけてあげたい(比喩ではなく)。

 

そういう話なんです、これ。そして、「倫理」というこの漢字の意味と矛盾しているとも感じないので、結論はこうなります。

 

倫理というものが如何なるものなのか誰も理解していない。

 

そうですね。これはまあ、「なぜ人を殺してはいけないのか」という、永井均による、哲学でもなければそもそも問いですらない(そもそも「形式」というものがどういうものなのか、全く知らないのかもしれません。文系でしょうし。)「二大哲学問題」のうちの1つですよね。彼は倫理の教科書のようなものも出版していますが、知的な読み物として楽しむには十分優れていました。一方で、ソクラテスへの解釈は全く的外れだとしか言いようがなかった。その論拠として、「ギュゲスの指輪」という、それを指にはめた者は透明人間になれるという、まあ仮想的なアイテムを例に挙げているのですが、彼は、根が小心者というか、ぶっちゃけただのチキンでしかなく頭も悪く、おそらく人としても悪人に分類されるような人物なんだろうなと思いましたね。彼は、人がもし「ギュゲスの指輪」を手に入れたら、間違いなく悪事を働くだろう、という確信を持っているようなんです。その時点で本性が見えてしまいました。私は違いますからね。『ロード・オブ・ザ・リング』の「フロド」ですね。参考になるというか、そのまんまです。それを所持していても悪事を働かないような人というのは、ふつうに存在しているんです。少なくとも私はそうですから。・・・まあ、要するにカントがふつうに正しいんです。「純粋理性批判」ばかりが注目されがちですが、「実践理性批判」の方が読むべき書かもしれません。まあ、読みませんけどね。英語版ですが、あらゆる哲学者たちの思想が(英語で、ですが)非常にシンプルに、過不足もないように感じられる程度の情報量で簡単にまとめられており、それを読むだけでぜんぶ理解できてしまうんですよね。

 

(そしてやはりカントは偉大でした。参考までに URL を貼り付けておきますね。翻訳アプリなどを使えば、まあ読めないということはないかと。それに、無料ですからね。Internet Encyclopedia of Philosophy [IEP] そういえば、あの中島義道も、カントについてはやはりかなりの高評価をしていましたね。まあ、私はカントについては倫理の教科書だけでほとんど事足りました。初めから知っていたようなことばかりでしたね。主に、「倫理」についてですが、まあ認識論的にも特に理解困難な箇所は皆無で、ネーミングもその訳語も適切でしたので、高2でしたが、担当の先生が倫理の知識には疎い人だったということもあって、カントの哲学用語の説明を先生に代わってクラスメイトに解説するようお願いされたこともありました。なつかしいですね。実際、私の専門は、どちらかといえば倫理なので。そしてカントの結論は全く妥当ですよ。私はもっと根源的というか、ミクロ的に研究しましたが。自由意志と運命の間にある人間存在にとっての倫理、というようなテーマで。)

 

倫理というのは、ふつうにありますよ。(因果応報もありますし、釈迦はあんな時代で本当に悟りを開いたんですね。すごい。)しかし、我々には自由意志もあり、また、その限界は非常に狭い。しかし、実は倫理の実在性を理解すると、むしろ自由意志と運命の絶妙な関係を「肌で感じる」ことさえ可能になります。最近はもう、ずっとそれを感じているので、疑いようもありません。もし、このような《共通認識》(← 実際に自己自身へと徹底的に問い質して、本当にわかっているのかどうかを確認すべきではありますが・・・)そう、その「共通認識」さえ持つことができれば、けっきょく「論理などというものは倫理によって容易く包摂される」ということが理解できます。案外、かんたんですよ。シンプルに、国文法を自分で研究してみれば、すぐにわかります。たとえば、「〜と考える」というポイントで終わらせた人に対し、「それで?」と問うことはいつでも可能なわけです。たとえば「〜と考えるべきであろうか」のような文は、その日本語的な自然さを保ちつつ、いくらでも(まあ、少々機械的ではありますが)作れますから。それはつまり、「〜は〜だ」という形式の文は、それだけではなんらかの主張を含むものであると断定することはできないということです。これは論理学や数学基礎論の領域になってしまうんでしょうかねぇ。そういう、学知に対する過度な専門化の流れにはホトホトうんざりしていますが、まあ例としては、「命題」「命題関数」「真偽値」あたりの概念を習得すれば、いきなりスッキリします。少しだけ、解説します。

 

たとえば、*草原に咲き誇る可憐な花がある*というのは「文」ですか? もちろん文であると解釈することは可能ですが、別に文として捉える必要は特にありません。なぜなら*__* は、意味内容 "は" 持っているのでしょうが、特にその意味内容がどうなのか(それこそ、本当にあるのか否か、というような「真偽」に関わる疑問に対して、ですね。)は、本当にどうでもよいことなんです。意味内容があるということと、それを真であるとすることは、全くの別物です。これ、当たり前になりすぎてしまったので、もう説明はあまりしたくないのですが、愛知者さんとは長い付き合いなので、少しだけ説明(ヒント?)をしてみました。私は本当にこの手の考察は徹底的にやり尽くしていて、飽き飽きしてます。ですから、本当に真剣な態度で「倫理」について何か知りたいという人にお願いされない限りは、こちらから教えようとはあまり思えなくなってしまいました。「どいつもこいつもバカばっかだな」と思うしかないんですよね・・・。本当にそうなので、仕方ないんです。

 

まあ、大事なことなので繰り返しておきますね。

 

「倫理は論理を(余裕で)包摂している」

 

100%正しいと確信しています。それは私たちが生き物だからです。以前、「人生は世界よりも大きい(包み込んでいる)」というようなことをお話ししましたよね。あれと同じことです。ハイデガーとかも一応関係してくるのかな。まあ、もう分からないことは消えたので、私はすでに次の世界のことを考え始めています。

 

いや、まさにその通りですよ。完全にその通り。正しいです。

そもそも(いま咄嗟に「何が」と適切な主語が思いつかないので、主語は省きますが・・・)、2種類あるんです。

 

①「(大前提として)すべてが許されている」ような世界(あるいは空間?)

②「(大前提として)すべてが禁じられている」ような世界(あるいは空間?)

 

数学は完全に②です。ただ、まあそこまで単純でもない面があり、深掘りすると分かりにくくはなってしまうのですが、①と②とでは、与えられる「ルール」の性質(性格)が完全に逆転しますよね。

 

まあ、ざっくり「秩序を保つために」としておきましょう。この目的を果たすために必要な「ルール」は、

 

① の場合、「禁止事項」を定めますよね。

 

そして、

 

②の場合、「許可項目」を定めますよね。

 

たったそれだけのことなのですが、この区分は非常に重要だと以前からずっと感じていました。(特に、勉強が苦手な生徒に数学を教えるときは、かなり意識していましたね。)

 

まあ、もっと本当に雑に区分してしまえば、

 

法律と数学ですね。

もちろん、法律が①、数学が②です。

この①と②の区分がスッキリ理解されていない人が、たとえば「指示待ち人間」になったりするわけです。これは、① であるという「傾向」の高い仕事を、② のように捉えているがために、気を利かせるということができず、少しでもマニュアルから外れているような事態に遭遇したときに、逐一、先輩や上司に指示を仰ぐわけですね。要は、自分の頭で考え、ある程度の責任感も感じつつ、例外処理を適切にこなすということができないということです。

 

この区分を完全に悟ったときは、かなり感動しました。頭の整理がつきましたね。シンプルに。まあ、公教育のせいで(特に今は本当にひどいです。混乱ですね、完全に。)、①と②とがぐちゃぐちゃな形で混同してしまっているような人は、多いんです。多くの社会問題がこの区分を観点に加えることでスッキリ見えるような気もします。

 

ただ、まあ・・・「続き」はあるんですよね。そこはあえて語るのを控えておきますね。ある種の礼儀のような意味合いを込めて。