リブログしとくわ

 

「異常性」についてだけど、確かに俺は自分のこと異常だと思ってるよ。

だから、合ってる。で、実際に異常だと思うけども、あんたは異常だとは感じないんだね。

それは、かなり意外というか、レアなタイプだと思うよ。

あと、ふつうに俺は発狂しながらツイッターやってたんで、単に異常であるという認識だけではなくて、その異常な言動を繰り返してきたことによって人にどう思われているのかは、そりゃあ気にしてるよ。

でも、案外みんな気にしてないっぽくて、俺のこと大好きな人もけっこういるらしいんだよね。

何人かはまあふつうにリアルで遊んだりもしてるし、絆みたいなものを感じる人もいるし、俺のこと大好きで、師匠でもあり親友でもあるような、対等な関係でいたいからっていう意味で「呼び捨てにしてよ」って言ってくれたやつもいたし。そいつなんて、「お願いだからもう少しだけ待ってて。俺がビッグになって【俺の芸名として定着してるけどもうあんま使いたくない名前】さん養ってあげるから!」とまで言ってくれてるやつもいるんだよね・・・まあ今どう思われてるのかはわかんないけど。でも第三者にさっき言われたんだけど、やっぱり未だに俺のこと大好きな人はたくさんいるらしい。誰だよwww っていう。

 

まあ、ふつうにめっちゃ煽ってくるやつらもいるし、嫌われるっていうか、小馬鹿にしてくるやつらも当然いるけどね。最近はそういうやつらからからの攻撃があまりに酷かったんで退散したってわけよ。だってさ、そりゃあ、東大理三のキチガイだから、ある種の人たちにとってはもう、最高の餌だよね。わかるでしょ、それは。

 

まあ、いいや。もうこのブログは閉じるから。さっきママにリクエストされた「さよならエレジー」の耳コピをやってて、とりあえずささっと冒頭部だけ耳コピしてオリジナルにデザインした譜面作ったんで、気分転換に書いてる感じだからさ、これ。

 

特に意味はないけど、載せとくわ〜

 

◉ 超感覚的世界の存在証明(試案) ◉


命題0:超感覚的世界は存在する


以下、この命題0をなるべく一般に認められやすい仕方で、かつ簡潔に論証する。


【論証の準備】


まず、無駄な議論を最小限に抑えるため、この論証における議論領域Mの範囲を明確にしておく。


すなわち、


議論領域Mは、ありとあらゆる人間存在にとっての生、つまりすべての人生の総体である


とする。


次に、この短い論証の試みにおいて、その妥当性を最大限に保証するために必要不可欠と考えられる幾つかの前提を挙げる。


事実0:人生における誤謬の存在
   われわれ人間存在にとっての生、つまり人生において、数々の誤謬が実際に存在することは周知の事実である。

定義1:自然界と自然法則について
   自然界とは、そこで生起するあらゆる現象(=: 森羅万象)が、原理的には通常の肉体的感覚器官のみによる知覚や認知が可能であり、かつ完全に自然法則に従っているような世界のことである。

定義2:超感覚的世界とは

   超感覚的世界とは、通常の肉体的感覚器官では捉えきれないような現象が生起し得る(あるいは生起する)ような世界、つまり、自然界によっては包摂されていない(あるいは包摂不能な)世界のことである。


【論証】


背理法を用いるために、まず以下の仮定を考える。


仮定W:超感覚的世界は存在しない


Wを前提とする(=: 真なる命題とする)と、定義2から、人間存在の肉体、すなわち人体に備わった通常の肉体的感覚器官で捉えられるような世界、すなわち*自然界のみが存在するということになる。


ところで、森羅万象は定義1より完全に自然法則に従って生起するのだから、上述の前提条件の下では、実際に生起したあらゆる現象は正しく、間違い(以下、「誤謬」と呼ぶ。)などというものは存在し得ない。(なぜなら、Wを前提としたことによって導かれた* により、議論領域Mにおいて生起し得るあらゆる現象は自然現象であり、それ以上でもそれ以下でもなく、単に自然法則に従って生起しているだけだということになるからである。)


つまり、仮定Wが真の命題であるならば、Mにおいて誤謬は存在し得ないということになる。ところが、事実0によれば、実際には、Mにおいて誤謬は存在し、それは周知の事実であった。したがって、Mにおいては実際に誤謬が存在しているにもかかわらず、それと同時にMにおいては誤謬は存在し得ないということになり、矛盾。

以上により、仮定Wは偽の命題として棄却され、命題0がMにおいて真であることが示された。

Q.E.D.

 ちょっと確認してないからわかんないけど、最近リブログをしあっていた、とある方が、最後の(わたしの)記事のコメント欄に、「わたし(←わたしのことです)(←まぎらわしい)はこのようなことを繰り返すだろう」という言葉を「予言」として与えてくれたんだけども、ぶっちゃけ予言っていうか、すでに飽きるほど繰り返してきたことなんだよね。だから、なんかむず痒いっていうか、うーん・・・いや、リブログを終えた時点では本当に「つまんな」って冷めただけなんだけど、コメント見て、あー、迷うけどいいや、だってあっちも(苦笑)とか連発してたし、実際に腹が立っていたのかどうかも不明だから、気にしないことにするわ。うん、まあいいや。とにかく笑えた。だってまじでバタフリーを相手どってトランセルが「かたくなる」を連発してるような感じなんだもん。いやー、これ、もし本当に腹が立っていたとしたら、ブチ切れちゃうかもな。でも、いいや。俺なんか、わけわからん奴にいきなり引用リツイートで絡まれて、そいつがま〜〜〜〜じでめんどくさいやつで、まあでもそのツイートに軽々しさは確かにあったかなとも思ったから、対応はしたんだよね。ま〜、めんどくさかった。でも、なぜか病気のこと、つまり共通の苦悩を抱えているっていうことを通じて、なんか仲良くなっちゃったんだよね。「こういう話が相談できるのは君くらいだから」とかでライン通話で相談に乗ったりもしたくらい。で、だ。ここからなんだわ本番は。。。そいつがさ、いや、もう今となっては笑い話なんだけど、ってかその前に、そいつって普段かなり強気だもんで、PTSDで希死念慮とかに苛まれてても、他のメンヘラとかメンヘラもどきみたいに「死にたい」なんてツイートはしないんだよ。でも、たまたま見かけてさ。(まあ、それ以前にもそういう話が死ぬほどあったんで、一種のアンテナ装置みたいなのが作動したんだろうけども、)これは「ガチなやつ」だと思って、すぐにラインしたんだよね。通話はしなかったけど、とにかく寄り添った。よくあるカウンセラー理論みたいなチャチなやつじゃなくて、心から寄り添うように努めたよ。で、そしたら、なんか奇跡的に立ち直ってくれて、心から嬉しかった。(いや、本当ですよ? わたしはいい人なんですよホントに。だからこそ荒み始めてきた自分が嫌になって、それでツイッターから離れたわけで・・・)で、だ。ここからなんだわ本番は。。。そいつがさ、いや、もう今となっては笑い話なんだけど(2回目)、、、いや、もうよそう。何回目かに、もうね、「締結」みたいなことをして、「同盟」みたいなのを組むことで、終わらせた。それに、向こうはもう仕事の方が忙しくなってて、ツイッターやってる暇がなくなってたからね。まあ、その後そいつとバチコンしたことはないし、一回相談したこともあったかな。まあその相談に対する感想には驚いたけどね。マジで驚いた。まあその説明は省くけども。・・・というわけで、別にこれくらいは屁でもないだろう、と。そういうことにしておきます笑

 

 そんで、なんだろう、やはりツイッターに参戦して正解だったかな、と。ものすごく濃密な経験だった。3〜4年くらいかな。まあ、むしろさんざん繰り返して(もちろん必要だからそうしたんだけども)きた結果、今回のような非常に極端な形に到達してしまった、って感じなんだよね。初めの方は、もっとゆるい感じだった。わたしが伝えたかったのはものすごく単純なことだったよ。まあ、今はかなり洗練された形で描写できるようになったかな。要するに、これ社会問題でさ、まあごく平凡な陰謀論(← 何気にうまい韻の踏み方だ・・・ふつうに使えそう)みたいなので考えると、「黒幕」みたいなのがいて〜、そいつらは〜、表舞台には出ずに〜、裏で〜、洗脳してて〜、、、、みたいな? でも、あ、《俺》に交代するわ。

 

 俺は違うと思うんだよね。洗脳している(支配している)と思っている「当のそいつ」もまた「洗脳されている(支配されている)」と思う。ていうか、そうに決まってるじゃんっていう。そんでその結果、白痴 idiot (=「自分の世界に生きる者」が原義)だったナザレのイエスが(そもそもソクラテスだってそうだったと思うけど、まあ宗教化したかどうかの違いはあるよね)、ゴルゴダで・・・っていう、さ。

 

 要するにみんなしてわけわかんなくなってるっていう状況だと思うんだよね。いや、これ自分も含めて言ってるんだよね。それが我ながら偉いと思う。ハッキリ言って。だってさぁ、完全にピエロだったからね。しかも自覚しててやってたからね。ABEMAに生出演までしてさ笑 でもさ、ホントもう(中略・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・とかとかとかとか)色々ありすぎて、「もう無理!」ってなって、もう最後らへんなんか「殺意の波動」みたいなのをリアルに体感して、スト2の「豪鬼」かよ、とか思ったし、リアルでも危険な目に遭ったし(実際には危険地帯を平然とやり過ごしたというだけなんだけどね・・・神かよ)、でもなんだかんだで、ああやっぱり愛なんだなぁって思ったよ。というのもさ、見守っててくれた人がいたんだよね。その人の言葉、載せておきます。本人が「お好きに使ってください」と仰ってくれたので。それで締めくくろう。いや〜、あっぱれ。

 

貴方へ
勝手ながら、私のこの文章をTwitterに投稿致します。それは、私が貴方(載せる為この呼び方にします。)という人間に対してどう思ってきたか、そしてそれはつまり、一人の人間が他者に対してどう思うことが可能なのか、どこまで哀傷を覚えることができるのかという、貴方が一貫して追求し続けた「愛」の問題へと重ねられていくと考える所以です。
貴方はドストエフスキー『白痴』のムイシュキンのように、清濁併せもつ人間のイノセントな面に期待し続けて、その帰結として煩悶を余儀無くされてしまいました。純粋な精神は凡そ人間の美しき魂であり、古来、哲学者たちはその魂を憧憬し、神との関連において人間のうちに根拠付けようとしてきました。貴方はそうした哲学者の一人だと私は真面目に思っています。人生は酷薄であり、そうした者達は極めて鋭敏な頭脳が故に「歓喜のない道」(これはT・S・エリオット『イーストコウカー』の言葉です。)を進んでいかなければなりません。貴方は正にゴルゴダに向かう十字架のイエスでした。
一方で、無邪気な貴方の本性は牧歌的な、私達が少年時代を懐古してはそこに原風景を覚える牧歌的な人柄の持ち主でもありました。漫画やアニメを嬉々として語りそこに邪気のない姿は清らかな魂の最も原初的な現れだったようで、私などは随分と慰藉されたものです。
「ゆとりある心で皆様が綴られたものを拝見しては刺激を受ける事も私には喜ばしい」といった私の言葉に、そんな風に述べる自らの心にいつしか欺瞞性を覚え始めた時、私は自分を苛んできたのですが、貴方はいつでも本当の貴方、赤誠な貴方でした。そうした貴方の姿勢を私は尊敬致します。

 
最後に。大事な人達がどんどんといなくなってしまいます。私の実家も気付けばなくなってから5年が経ち、三匹の、最も大切な猫の最後が天に召されてから9年が経ちました。このアパートの周りの景色もわずか4年で随分と変化しました。時の速さは更地をアパートにし、また更地としまた何かしらを建てております。

人も町も、全てが変わらざるを得ない。それは哀切の残滓となり胸を痛ませます。貴方の未来が輝かしいものになることを祈念致しております。
2023年1月21日 はる

 

 

まあ、初めてだったよ。「あの時の感動の嵐と溢れ出す感謝の涙」と「同質」の「感謝」を、「自分自身"以外"」に与えてもらったのは。本当に初めてだった。もちろんそのことも本人に伝えた。もうね、お腹いっぱいよ。まあ、現実生活のことがあるんでとにかく静養しなきゃいけないんだけど、ある程度は活動しないと衰弱しちゃうから、なんだ、なんていうか・・・やっぱり感謝ってことになるのかな。これも。うーん、おもろいね人生。

 

 

 

 

っていうかそんなことよりも遥かに大事なことがあって、生きていても死んでいても、どうか少しでも安らかに、とだけ祈る他ない。その人と現実世界で出会うことはないし、その必要もないし、生きていてくださいだなんてとても言えないから、「ずっと覚えているからね」としか言えない。もし命尽き果ててしまってたら、これで2人目だなぁ。。。絶対に忘れちゃいけない人。あ、まあネットだけのつながりのうちで、っていうことなんだけど、それだからこそ、っていう意味でもあるね。

 

蛇足でした。(けっきょくなんだったんだ)