拙ブログをちら見される方々は、何か気になったこと、たとえばトランプ銃撃とか、ブラックマンデーとか、南海トラフとか、そういうキーワードで引っ掛かる、いわゆる情報をあちこち見続ける傾向にあるのだろう。

事実、そういう記事というか情報については閲覧が多い。

拙者も、そうしたいわゆる情報の場合は、引いてくる元のリンク等を基本的に付すようにしている。

それは、勿論、引かせていただく当然の敬意もあるのだが、一方、自分自身の感覚やらから来るものと一線を画するためでもある。


その、自身の感覚から来るなにがしに対しては、基本的に閲覧も少ない傾向にある。情報巡りフェチにとっては、何の価値もないものだからであろう。


しかし、昨晩から特に今日感じていることは、いわゆる情報と自分自身の内的感覚の大きなズレである。

たとえばであるが、よくスターシードとライトワーカーという区分が、銀河連合メッセージなどでなされているのだが、どうにも自分の中では違和感が強い。

まぁ、どうせ拙者なんぞは、その辺の蚊とか蝿とかと変わらんのだから、所詮関係ないことだと思おうともするのだが、いやそうではないというのがあったりする。そういうことではないんだよ、と。

では、どういうことなのかと、そこは判然としないのだが、凄く端的に言えば、そんな単純なことではないよという感じ。

その感じが、内的な感覚である。

つまり、スターシードとかライトワーカーとかって捉え方が、間違っているわけじゃないんだろうが、とても表層的な感じがしている、と。

正直、動画などで一応聞いてはいても、"やがては"馬鹿馬鹿しくなってきてしまうのである。


また、たとえば髭のおっちゃんのメッセージなどで、やはり大災害待ったなしなので、他人や政府や要するに外に頼る自分を滅しなさいというところ。地球から見たら、そういう人が要らないのだから、と。


これは、理屈としてはよくわかるわけ。その通りだとも思う。

思うのだけど、深いところで違和感があるんだよな。

これは、一つには拙者が他に頼ってばかりの人間だということが大きいだろう。蚊や蝿ほどの役割さえないレベルなので、一掃されるべしだからこそ感じる違和感かもしれない。


が、実はそれだけでもない。

それは、ずっとずっと前から、よく無音の大声でいわば神さんとかに吠えていたことがあるのだが、苦痛だの痛みだの感じる神経を持たせた上で痛みやら苦痛やらばかり感じるこの世界ってな、一体何だ?、と。のんなもの、その世界そのものが要らないじゃないか。人間の責任とか言ってんじゃねえ。てめえ(神さん)が責任とれ、こら!ってなことを。

この感じは、今も自分の中にある。


勿論、時空の法則を学ぶと、だいたいその"神さん"というところから捉え方が異なってくるので、ふざけんじゃねー的な感覚では最早ないのだが。


だからなのかは知らないが、髭のおっちゃんの、これに関する説明にも、拙者の内的な感覚からすると、そんな浅いことじゃないんだよなぁという違和感があるのだから仕方ない。

災害が起こった後に、撃滅な生活な中でも明日を見いだせる準備をしているのが、髭のおっちゃんの話を聞いている人たちだと言われるのだけど、どう言ったらいいかなぁ、フォトんベルトとか色々言われていても、同一線上のMIRAI感なんだよなぁ。これまでがあって、災害とかがあって、未来の姿があってという。

つまり、ごく普通の捉え方なんだ。

もう、ここが拙者の内的な感覚とは異なってしまうんだよなぁ。


こうでこうだから、こう。

算数なんだよなぁ、それじゃあ。


総じて言うとね、YouTubeもSNSもすべからくそうなんだけど、結局はお手軽なんだよな。

森の中でさ、野鳥の囀りが響いてくる、あの一瞬を思いだしてほしい。その、シンプルだけど、いわば全ての真実が凝縮されているような瞬間でしょう。

これに比するのは、どうかと思うけど、人間が作り出してきたどんな音も、その一瞬には至らないんだよな。

というか、拙者はそう感じてしまうわけ。だから、内的な感覚もそういう感じからになってしまうのかもしれないけど。

本当の名曲ですら、野鳥の囀りの一瞬には敵わないとしたら、まして、YouTubeだのSNSだののお手軽さは、やはりお手軽さが際立つとしか言い様がない。


その感じが、拙者の中で昨日から物凄く強かった。

まぁ、Qなんかの軍事情報……ストームライダー氏レベルだけだけど……は、お手軽な感じはしないんだけどね。


まぁ、何だかはよくわからんが、拙者の感じでは、もっとずっと本質レベルでのコミュニケーションベースの文化へ向かう方向になるんだよな。

たとえば、鉱物さん、石を粉砕機でただ粉砕するみたいなことが無い文化ってこと。石さんの本質とコミュニケーションして、協力をしていただくというような文化なんだよ。


たとえば、今でもホンモノのシャーマンは、動物の狩人でもあったりする。そのとき、動物と目が合い、完全に溶け合った瞬間にライフルを撃ち、撃った自分と撃たれた獣が一体となった感覚を持つのだよな。

単に、残酷とかなんか、そんなチャチな感覚で評論できる次元じゃないわけだ。


まぁ、この辺のこともちゃんとした書籍には出てくるものだよね。

でも、日々更新して垂れ流しのジョーホーでは全くカバーできないよ。

なので、拙ブログでたとえその書籍を紹介しても、それをちゃんと読もうとする人なんて皆無なんだろうなと思う。


書籍、本、というのは本の形をした物体なんだよな。つまり、そこに本質がある。

そこに記載されているデータや情報は、本質じゃないんだよな。

なので、本当に縁があれば、その本に出合うことになるんだよな。

でも、YouTubeやらSNSやら、デジタルな情報ってのは、実はそこに本質はないんだよ。つまり、別に、縁があれば出合うとかじゃないんだよな。

そして、この辺がわかるかわからないかってのが、この記事で書いた拙者の違和感ってのに共感するかしないかに通じているんだけどね。


あ、言っとくが、こんなごたくを並べてる拙者が、真っ先に何階トラフやらでおっ死ぬ確率高いかも。