レプリコンやらエボラ武蔵村山で、文字通りのゾンビ社会が来てしまうのではないか。


そうした畏れや恐れは、より波動を低くして引き寄せてしまうから、そんなことを忘れよう。


スピが言いそうなことである。


が、よーく自分を見つめてほしい。

むしろその畏れとは、そんなことを口にすると他人に何と思われるか、実はそれを怖れているのではないか?


事実を事実として直視「できる」者には、畏れはない。畏れがないから直視できるのだ。


ホワイトハットによる解放と、そのより奥深くにある新地球への途への拓き。それを直視することも、また畏れがないときにのみ直視できるだろう。つまり、何年先が何十年先かわからなくても、それはそうなっているのだと直視すること。

だが、それが実現する前に、様々な現実の脅威が、どうしようもなくそこにあることもまた確かなのだ。

それを直視できるかはどうかは、畏れがあるかないかにかかっている。

これらは、互いに打ち消しあうことなく、どちらも現実としてそこにあるのである。


あのウソコロデミックのとき、畏れる者ほど周囲を見回し、自分だけがひとりぼっちにならないように、周りと同じ行動をとった。それは、他人の目を最も重要視することから来る畏れによるものだ。


コロナとは何なのか。

現実の脅威だとすれば、どのような脅威なのか。

畏れのない者は、そのように考え、その視点で向き合おうとした。

すると、コロナなどという実態はないことがわかってきた。

同時に、正に現実の脅威として、殺人ワクチンが浮かびあがってきた。

これは、人間の生命力を脅かすものである、と。


正しく恐れるなどという言葉があるが、妙な言い回しだと思う。

そうではなく、畏れや恐れの感情に振り回されることなく、現実の脅威なのかどうかを、正確に把握することが肝要だ。

そして、それが現実の脅威なら、対処しなければならない。


いま、日本にはホンモノの脅威が迫っているのだ。