ことに日本人古来の美徳的な志として、「滅私奉公」ってのを奉ってきたわけだが。

「滅私」・・・これはさ、自分の中の「ego」を矢鱈と増大させずってことで、非常に大事な側面あるよね。

「奉公」・・・出ましたの、奴隷社会対応(^^

そいでもって、これをくっつけるとどーなるか?
「滅私奉公」・・・我を忘れて奴隷になりましょう
これだけになんのよね(^^

つまり、「滅私」が「ego」の増大抑制なのではなくて、「本質の意識と意思」を滅する方へいくわけな。
それで、「ego」だけは残るわけよ。
本質の「意思」はどっかもってって、妙な欲望とか他人の目とかばっか拡大する。
「意思」がないから、ゾンビになる。
より奴隷化が進む・・・とまぁ、そんな循環に乗るわけだ。

ちょっと視点を変える。
よく言うんだが、実際ホントにそうだけど、ホンモノの金持ちって"質素"に暮らすでしょう。
アレってどういうこと? ってのがある。
もう一つ。
ホントに愛し愛されている関係を持っているカップルとか夫婦とかって・・・友達同士でもいいよ・・・お互いに疲れ切ったりしないよね。
これってどういうこと?

これはつまりさ、エネルギーが足りているかどうかなんだよ。
"ホンモノの"金持ちさんは、カネのエネルギーが足りているわけ。だから、矢鱈と消費しまくるとか、他人に高いもの見せびらかすとか、そういう「代替え」が要らないわけな。何の代替えかっていうと、カネのエネルギーの不足を、他のエネルギー"もどき"で代替えしようというわけね。
でも、他人に羨ましがらせても本当のエネルギーじゃないからな。他人の賞賛だとかってのは、少しはエネルギー動いているんだが、「薄いエネルギー」・・・大して量のない・・・だからさ。それで、代替えのつもりが"不足分全然埋まらない"もんで、また買っては見せびらかしてって悪循環に陥る。これ、よく見る現象でしょ。

愛し愛され不足のエネルギー枯渇ってのは、恋人同士とかだけじゃなく、「人間同士のエネルギーの奪い合い」ってところに元があんだよね。たとえば、母親の愛情エネルギーをめぐっての兄弟間のエネルギー闘争とかさ。
夫婦間のエネルギー闘争ってのは・・・つまり、主導権争いになるだけ・・・ニューエイジの時代からよく指摘されてたよな。


こうしたところから、も一度「滅私奉公」ってのを眺めると、如何に支配者とか"やつら"が巧妙に奴隷ゾンビ化をやり続けてきたかわかるでしょう。
「道徳の顔をした」奴隷ゾンビ化戦略が如何に多いかだね。

拙者は一人っ子だもんで、兄弟間のエネルギー闘争とか無縁だったんだが、妻は姉妹いるのでやはりエネルギー闘争に巻き込まれざるを得なかったりするのを見てきた。ざるを得ないってとこがあんだよな。
ことに、姉だとかさ"強者側"の方がエネルギーちゅーちゅーの癖があるかな。会社でいえば、上になるほどってとこか。

ま、そんなわけで、良いと言われてきた"道徳"とかに「?」を付して検証するのも大事であり、且つまた、人類ずっとみんなでやり続けきた"人間同士のエネルギー闘争"ってものが、どれほど自分も癖がついているか。ここんところを「観察」してみるのが良いだろうね。
「観察」するわけ。良いの悪いの、アタシはダメだとか、そんな"判断"とか"感想"とか要らないの。
じっと「観察」するだけ。

それで、ホントに「はは~ん。そーかそーか。自分の癖ってこれねー」ってわかったとき、同時にその癖は抜けてるんだよな(^^
ほんとにわかると抜けるの。
そして、残ったものは、自分のホントの個性だな。