御存知、埼玉のねぇーさんが嘆いている。 ↓
 


まずは、リンクをお読みいただきたく。

その上てなんだが、今、この日本にホントの意味で心があったかくなる報道は皆無である。如何にもハートウォームな報道があったとしても、そこには裏の意図があると思った方がよい。

なぜか。
それは、まずアメリカを見てみたらよい。この3年半、サイテーのでーとーりょーにて、サイテーの上にもサイテーな状況がまいんち垂れ流されてきたであろう。
アメリカの場合、その演出は白か黒かという、言ってしまえばバカでもわかるストーリー。
そのため、かなりハードな場面も、日常茶飯事。

だが日本っつーとこは、基本、総じて曖昧である。日がな逢魔ケ時みたいなくうき感である。
曖昧なくうき感における合議制をとって、誰も責任を感じることなく、赤信号みんなで渡る世界観だ。
逆に、そんな中でひときわ声高に自分的には“正しい”自説を辻説法し始める輩が、では聡明かというとそうでもない。殆んどの場合。なぜなら、その者も曖昧なくうきを吸って生きているからである。およそ、海外の良きにつけ悪しきにつけ強いリーダーシップとは似てもにつかないものである。

したがって、その曖昧な日本での舞台はどうなるかといえば、極めて曖昧なくうき感の中で、もさもさするほどゆっくりとコトが起こるような起こらないようなスピードで、なし崩し的に何時の間にやら状況が変わっているという、ソフトランディングというか、ともかく、なし崩し的な様相となるわけである。

しかし、曖昧ではあるが、くうきに混じってくるのは、アメリカでのカバールなサイテーさの炙り出しの“ような匂い”である。それが、今なわけだ。
であるから、炙り出されるクサヤのような匂いは、さらに満ちてくるわけだ。ただでさえ曖昧でグニグニで、湿度の高いねっとりしたくうきが、臭い匂いに満ちてきているわけである。
ま、窒息注意報発令の状況といえる。

したがって、特に日本でのマスゴミねたは勿論、ヒットを狙っているSNSなども、実は触れない方がよかったりするわけである。ヒットを狙う狙わないというのは、それが収益系かどうかが一つのポイントとなるだろう。

どうして、こんなことになってるのかといえば、息ができなくて苦しくて、浮上するのが待たれているからだ。
どんなところにいれば、息ができるのか? そこんところ。
これは、一人ひとりの感性の課題になってきている。