熱下がりOKと思っていたらば、昨晩、左肺の裏が痛いわ(前日の妻と同じ)、腹は一晩中下すわ、少し寝入ると悪夢で起きるわと、殆んど眠れてない。

ので、いささか常以上にわけわからん節を吹かすと思うが、ご勘弁を。


二足のわらじと付けたが、カネの話ではない。

昨日のSHOGEN氏メッセージおよび藤原直哉氏メッセージを拝見して、拙者が観じるところである。


日本は、“表上(の裏)”、アメリカの属国である。やらせの第二次世界大戦の結果、そうなってるわけだ。

なので、一つには、親会社ならぬ親国家アメリカで本当に起こっていることと共に生きることは、当然の側面がある。つまり、トランプとMAGAのアメリカ国家運動としての側面である。


もう一つが、そんなやらせの世界大戦やら、同じくやらせの明治維新なんてものの遥か以前、縄文文化の日本という側面である。ここに、かねてより言われている日本DNA、YAP遺伝子がそのまま直結している。秋の虫たちの声が、騒音でなく音楽として“聞こえる能力”と関係しているところ。


我々は、この精神的な二足のわらじを履くべしなのである。


かつ同時に、アメリカのMAGAに“隣接”するかのように、プーさんと習さんを軸とするBRICSが屹立し、それらは等しくNESARA/GESARAビジョンを共有している。

すなわち、二足のわらじを履きつつ日本人が歩いていく方向は、日本NESARA(一時、JESARA用語が流行ったけども)であり、それらが融合する世界がGESARAといえる。


二足のわらじは、少なくとも属国日本の冠を脱ぐまでは、両輪だ。どちらも必要不可欠である。

だが、これが必要条件だけでなく十分条件となるためには、正に、傍観者ではなく当事者たらんとする心構えが要るということであろう。


属国の看板を外すときとはすなわち、JESARAが成っているときである。

そして、JESARAが成っているとは、日本人DNAが愛すること・愛されていることを“思い出した”ときである。

このとき、GESARAの世界で日本人が役割を果たすことが可能となるのである。


愛とは、パワーであるという。

傍観者には、パワーはない。

当事者にしか、パワーは訪れない。

だからこそ、当事者たらんとする精神にしか、熱が宿らないのだ。


二足のわらじを履くものよ。

祝福あれ!