この分厚さ(^o^)

京極夏彦氏の「絡新婦(じょろうぐも)の理(ことわり)」である。

写真のように、既にボロボロになっているのだが、非常に久しぶりに再読したところである。
どうしてかというと、この“事件”が起きた場所の設定が千葉の勝浦であり、出てくる地名地名が拙者のセカンドハウスライフに被りまくりだからなのであった。

拙者は、シリーズの中でもこの本は好きでなかった。なぜなら、出てくる事象が陰惨極まりないことばかりで、目潰し魔による連続殺人だの、女生徒の売春やサバト、はたまたキテレツな女権論者だの……結局、そうした事件のことごとくが、ある蜘蛛(それは妙麗な女性)の奸計によるものだったというストーリー。

なので、これまで何回か読んでいたのだが、実はさっぱり忘れていた。
それで今回読み直してみると、昔のようには反発を感じなかった。それよりも、本来のテーマの方に関心が向いたのだった。

本書のテーマを、拙者的に一言で乱暴に言ってしまうと、本来の社会である母系社会では、現在の父系社会での価値観はことごとく通用せず、ことにそれは性のあり方に著しいということである。

たとえば、“夜這い”とは、セックスをしたいために、夜しのんで行くことを指すのだが、母系社会ではそれは当然のことだということ。そこには、はしたないだの、だらしないなどという現在の価値観は通用しないのだ。
しかもそれは、男性が夜這うのみならず、女性が夜這うこともことのほか多かったということでもある。
夜這いを受け入れる場合、女性は必ず“恋愛感情”に類する意識のもとに受け入れており、それは売春などの意識とは全く異なるということ。つまり、売春とは父系社会での価値観に基づくだけの意識である。

こうしたこと“など”が、この分厚い小説の筋骨に当たる。
いわゆる女権論者などは、憑き物落としの京極堂の前にはなすすべもなく論破される。

だが、現在の世界変動から見て最も重要なことは、夜這い云々なんかより、キリスト教という父系宗教の問題である。本書にもズバリそこを捉えての論述もあるのだが、キャラクターとして登場するのが“黒い聖母”である。
キリスト教は、基本的に女性を認めていない。それは仏教も同じである。

さて、2年前トランプが不正選挙によって座を去り、俄にQムーブメントが起きてきた頃、女性性の復活、母系社会の復活が話題テーマの大きな一つであったことを覚えておられるだろうか? これは、アライアンス情報にも含まれていたことである。
しかし、最近はここら辺りが聞こえなくなっている。

一方、拙者は何度か指摘したが、現在の世界動乱は、要するに“宗教戦争”の中の話であるということ。
登場する事象は現代のものであるが、ストーリーの土台は昔のまんまである。

ところがだ。単に、光対闇などと言っている、つまりそれは、父系宗教で語っている枠組みのまんまの概念なのだが、たとえばそこに本来としてあるべき母系社会の復活が入り込んだとたんに、父系宗教の枠組み的な概念は崩壊するのである。つまり、光対闇などという枠組みが崩壊するわけだ。

「正しいと思っていること(実は思わされていること)」が、全てひっくり返る。今起こっていることがそういうことであれば、これはQ的な情報の範疇を遥かに超えることが予想できる。
もし、宗教戦争の枠内であれば、それはごく短期の変動でしかないだろう。

ただ一つ言えることは、“夜這い”と聞いて顔をしかめる貴女であれば、それは人間が自由であることを正に阻害しているのが貴女自身だということである。

真実を知りたいと思うなら、ぜひこの分厚い本を手にとってほしい。