夏は妖怪・・・となれば、何十回目か知らないが、京極夏彦氏のシリーズを読みたくなる。
 

 

この「塗仏の宴」(上:宴の支度、下:宴の始末)が出されたのは、なんと1998年である。

古本やで“拝み屋”の京極堂が、「憑きもの落とし」によって事件を「無効化」し、読者の憑きものも同時に落としてしまうというシリーズの頂点に当たる。京極堂は、事件を解決するのではない。情報によって“解体”し、事件を「無効化」するのである。
解体されるのは、思い込みによってあたかも成立しているかのような出来事が、「実はないものであった」という解体である。
本作品では、京極堂の関係者がことごとく、行方不明等に陥る。それらに関係するのが、占い師やあちこちのカルトや宗教集団であり、それらが全員、伊豆の韮山に集結するのである。その理由というのが、数千年前から居るという不老不死の生物「くんほう様」あるとされる「へびと村」・・・なぜか村ごと現在は存在しないことになっており、そこでは村人五十人全員殺害事件があったとローカルな報道まであったのだが・・。

この物語の最終的な設定は、こういうことである。
・戦時中(第二次世界大戦)の「軍事的研究」として、「洗脳」があった
・それとは別個に、「物理的(肉体的)」な研究もなされていた
・ここで、それらを結びつけて「実験」を企図した者がいた。そいつは大がかりな「国家的実験」をすることとなった
・これに基づき「ゲーム」が行われたのである。伊豆の韮山に集結するよう誘導された者ども全員が、「洗脳」によって導かれた者どもであった

 

国家による「洗脳」そして「実験」・・・何か最近のキーワードではないだろうか?

 
 
 
「洗脳」とは何か?
拙者は拙ブログで何度も、洗脳されている人はそれに自分で気づくことはできない、そういう仕組みになっている・・・脳の仕組み・・・ことを申し上げてきているが、このことがホントによくわかる京極氏の作品となっている。
 
この「大がかりなゲーム」・・・誰が世の中の憑きもの落としをするであろうか?