案山子の絵日記
Hakogame
 ある初夏の夜です。
 風のかなり強い中に、海の匂いがする蒸し暑さが混じって、なんとなしの不安からボクは急ぎ足で帰宅しておりました。
 駅から十数分歩いたあたりに、真っ暗な建物がよどんでいました。
 これは、たしか社宅だったはずですが、廃棄されてしまうのか灯りが一つもついていないのでした。
 のみならず、建物が大きいせいで他の明るさを遮ってしまうので、そこから自宅の方へ向かう道が真っ暗になっているのでした。
 今日は、その道を帰りたくない・・・と、妙にヒヤリとするほどはっきりボクは感じましたから、建物の裏手側に回る道を選ぶことにしました。
 その裏手には畑が残っていて、灯明のようなものが照らされていることを知っていたのです。
 畑の中から、虫たちの声が道の方まであふれ出していました。
 虫の声にほっとしたボクは、タバコを一本くわえると、歩調を少し落として灯明の方を見やリました。
 そのとき、ボクの目に見慣れないものが飛び込んできたのです。
 なぜか灯明の横に、案山子が立っているのでした。
 いや、案山子のようなものといった方がよいかと思います。
 なぜなら、麦わら帽子を被っておりましたが、着ているものはどう見ても農作業の服ではなかったからです。
 上半身にはおったものは、シャツというよりはむしろ女性用のブラウスに見えましたし、下には海水パンツのようなものをつけておりました。そのパンツから、一本だけ足が出ていて、パンツはへらへらと風になびいているのでした。
 五日ばかり前、犬を連れてここを散歩した折には、こんな案山子は立っていませんでした。
 ボクは、案山子が暗躍する怪奇物語などを思い出し急に怖くなりました。そして、誰も見ていないことを幸いに駆け出して帰ったのでした。
 
 それから、十日ばかり経った頃のことです。
 夕立が降りそうで降らないという日が続いていました。
 夜になっても鳴きやまないセミは、一種の妖怪だなどと思いながら、ボクはそのとき休みをとった日でしたから、気分を変えるためにお茶を飲みに歩き出したところでした。
 西の夕焼けは夜に紛れはじめて、やわらかく、くすんできていました。
 ボクは少しぼうっとしながら、夕焼けにみとれて歩いていました。
 曲がり角に賽の神とした道祖神があって、そこを通り過ぎようとしたときでした。
 目の前に、るぃっと出てきたものがありました。
 それは、無言で深々とお辞儀をしました。
 そして、顔をあげると・・・・あの案山子がそこにいたのでした。
 声を上げて腰をぬかすには、あまりのことに出くわした感じでした。
 それで、かえって日頃の自分のままに、「失礼」と言ってそのまま通り過ぎようとしたのでしたが、案山子はまたボクの目の前にるぃっと移動して、無言で深々と頭をたれるのでした。
 
 ボクのここからの記憶は、多少ともぼんやりとしているので正確ではないかもしれません。けれど、およそこんな風な感じであったことは確かなようです。
 
 このまま避けて通れないことを納得したボクは、「何かお悪いのですか?」と丁寧に案山子に尋ねました。それより他にし様がなかったのです。
 案山子は、身体を少し傾けるようにすると(きっと、会釈のつもりだったのでしょう)、太いクヌギの木がある方へ、るぅーぃるぅーぃと移動していきました。
 クヌギの木の裏で、ボクたちは立ったまま向かいあうことになりました。
 そのとき気が付いたことは、案山子の顔はお目目にどんぐりがついているほかは、何もありません。そして、なぜか右腕を骨折したようにつっていることでした。
 案山子は、一本足の腰のあたりを引き気味にして、つった右腕の側を下に向けるようにすると、ボクの顔とクヌギの木の下を流れる小川を交互に見やるようにしました。
 小川に何かあるだろうかと、ボクはじっと目をこらして覗き込みました。
 しかし、青黒いような藻が揺れているほかは、何も見えないのです。
 ボクが疑問符を口にするより早く、案山子はボクから目をそらし、小川をじっと見つめるようにするので、仕方なくボクもまた、小川を再び覗き込むよりし様がなかったのです。
 そうして、どれくらい経ったことでしょう。
 カナカナカナカナカナ カナカナカナカナカナ
 ひぐらしの声が、辺り中に染み渡っているのに気がつきました。
 もう大分、陽が落ちてきているに違いありません。
 ただ不思議なことは、草の虫たちの声が少しも聞こえないことでした。
 カナカナカナカナカナ カナカナカナカナカナ
 ふと横を見ると、案山子はそこにおりませんでした。
 けれど、小川の縁に、何かしろい紙のようなものが流れ着いていました。
 ボクは、何と考えることもなくそれを拾い上げ、お茶を飲みに行くのを止めて、家へ帰ることにしたのでした。
 拾ったものは、一冊のノォトのような紙つづりでした。
 カナカナカナカナカナ カナカナカナカナカナ
 帰る間もずっと、ひぐらしの声に抱かれているように感じておりました。
 
 その夜、自室の窓からは、三日月の明るかったことを覚えています。
 それで、どうしても電気をつける気になりませんでした。
 蝋燭の周りに和紙の箱を被せるだけの、行灯もどきのようなのを用意して、ぼんやりとした灯りの中に浸ることにしました。
 ひととき、月光に揺れる紫煙を眺めていましたが、夕方の出来事が頭に浮かんで落ち着きません。
 のみならず、耳の奥ではまだ、ひぐらしの鳴く声が聞こえているようなのです。
(あれを見てみないといけないかな)
 ボクは、何か恐ろしくて、拾った紙つづりをまだ開いていませんでした。
 それに、小川の水にぬれているので、庭のイチイの枝に紙つづりを挟んで、干しておいたのでした。
 タバコをもう一本つけて三日月を眺めましたが、今日の三日月は微笑みというより、弱虫なボクを冷笑しているようにしか思えないのです。
(やはり、あれを見てみなくてはいけない)
 ボクはようやっと決心をして、家族に気がつかれないように、そっと庭に出てみました。
 
 紙つづりは、枝に挟まったままカラカラと夜風に揺れていました。
 ボクが手を伸ばして紙つづりを取ろうとしたときです。
 るぅーぃ。
 何ものかが、ボクの手を抑えました。
 あの案山子の左手でした。 
 案山子は、どんぐりの目でボクをちょっと覗きこむようにすると、すぐに紙つづりの方へ向きを変えて、ほら見てごらんというようにうなづくのです。
 月光に照らされて見えてきたものは、木をよじ登ってくるセミの幼虫でした。
 セミはしっかりした足取りで、上へ上へと登っていきます。
 そして、紙つづりへ足がかかったとき、そのまますぅーっと紙つづりに吸い込まれてしまいました。
 ボクは、驚愕というより、怖れていたことが起こってしまったというような怒りを感じて、胸中に「!」を点して、案山子の胸倉をつかみました。
 しかし、相変わらず案山子はどんぐりの目で、ただボクを見つめると、首を横にふって、また見てごらんというようにうなづくのです。
 すると、今度はヤモリが木を登っていくではありませんか。
 同じことが繰り返されました。
 ヤモリもまた、紙つづりに吸い込まれていったのです。
 それから、いったい、どれくらいの生き物が紙つづりに吸い込まれていったでしょうか。
 小さなカナヘビやトカゲも吸い込まれていきました。
 カブトムシの蛹が、土の中から浮き上がって、そのまま吸い込まれていきました。
 不思議なことは、そうした生き物ばかりではなく、破れた提灯や、ほとんど粉々になった消しゴム、割れてしまったセルロイドの筆入れなども、どこからか飛んできて、紙つづりに吸い込まれていったのです。
 
 三日月がもう直沈むという頃、案山子がボクの手を離しました。
 そして、紙つづりを手にとってみろという風にうなづきました。
 ボクは、声を低めながらも、とうとう口を開きました。
「この妖怪め。ボクまでそこへ吸い込もうというのか?」
 すると、案山子はうろたえたようによろけると、しきりに首をふって、はじめの時のように深々とお辞儀をするのでした。
 ですが、たとえ何の理由があるにせよ、とてもそれに触れる気にはなりません。
「お前が取ればいいじゃないか」とボクは言いました。
 案山子は思案しているようでした。
 それから、一本足でるぅーぃるぅーぃと紙つづりの側まで移動すると、左手をその上でぱらぱらと振りました。
 すると、そこから何十という蛍が現われて、ぺかぺかと碧色の光で埋め尽くしました。
 湿った風が急にやわらかくなり、草の虫たちが鳴きだしました。
 その光の舞に、ボクの不安な心の闇まで消し飛んでしまいました。
 そしてボクは、案山子の隣に立って、紙つづりを開いてみたのです。
 
 一頁目には、綺麗な樹木が水彩画のように描いてあって、そこにセミの抜け殻がとまっていました。
 驚いて案山子を見やりますと、案山子はしきりにうなづいています。
 次のページには、美しい窓の絵にヤモリの脱皮した抜け殻がついていたのです。
 カブトムシは蛹の殻が、絵の中で踊っていました。
 トカゲやヘビやカナヘビも脱皮したあとが、美しい絵の中に飾られていたのでした。
 そして、なぜかボクに似ているなと感じた少年の絵が描いてある頁には、懐かしい消しゴムや筆箱に囲まれた部屋の様子や、お祭りで点した提灯の絵が出てくるのでした。
 ボクは、その頃になると、どうしてか涙が止まりませんでした。
 あんまり涙が出るので、心配したのか、案山子に背中をさすられている始末です。
 
 そして、とうとう最後の頁になりました。
 夕暮れの田んぼの景色です。
 その真ん中に、案山子が描いてあるようでした。
 ようでしたというのは、その頁は左側から破れてしまっていて、案山子の右手からからだ全体が無くなっていたからです。
 それに、小川に誰かが捨てたものの名残りでしょうか、ブラウスや海水パンツの切れ端のようなものが付着していたのでした。
 案山子は、その頁まで来ると、じっと下を向いたまま動こうとしなくなりました。
 しかし、草の虫たちは、いっそう元気よく鳴き始め、蛍たちももっと数を増して碧光のプールのように波立ちました。
 そのとき、どうしてかボクは、何をしたらいいかがわかっていたように思います。
 案山子に向かって、そのままそこへ居るように身振りで示しました。
 それから、自室へ取って返すと、机の引き出しや押入れを捜し始めました。
 やっと、ちょうどいいと思ったものを捜しあてると、油性ペンとともに、もう一度庭へ帰りました。
 案山子は、そのまま動かずにそこへ立っていました。
 ボクは、案山子の前へそれ・・・つまり、小学四年生の頃の絵日記を手渡すと、表紙にあらためて油性ペンで「絵日記」と書きました。
 そして、ボクの名前の横に、「案山子の   」と書きました。
「最後の方は、何も書いてないんだ。絵日記の宿題が途中で時間切れになっちゃたんだよ」とか何とか言いながら、最後の数頁が白紙なのを、案山子に示したように記憶しています。
 そして、「これを使ってくれないか」と言った気がします。
 
 ふっと我に返りました。 
 案山子は、そこにいませんでした。
 蛍も飛んでいませんでした。
 草虫たちは、いつもくらいの大きさで鳴いていました。
 しかし、夜風はやさしいままでした。
 ボクは急に、子どもの寝顔をみたくなって、家の中へ引き返したのでした。
 
 あれから、案山子に会うことはありません。
 けれど、案山子のどんぐりの目と深々としたおじぎは、ずっと心の中で生きています。             (おしまい)