投稿写真 

 

「駅員さん」

hakogame

 真夏のプラットフォームは、フライパンのようです。
 陽射しが強いばかりか、コンクリートの中から暑いのが立ち上って、ホームの上の空気は煮たってぐらぐらします。
 そこに立っている駅員さんは、しゃっきり立っています。けれど、実は駅員さんだって煮たって、ぐらぐらしているのでした。
 頭も、目もぼんやり揺れていて、何かふだんと違うところにいるように感じるのでした。
 いま、くだりの電車が、とろとろん、とろとろん。ゆっくり出ていくところです。
 駅員さんは安全を確認して、電車をみやったとき、いつも気がつかないようなのが目にはいりました。
 電車の窓から、アリの子らがいっせいに顔を出して外を見ているのでした。風に飛ばされないように、必死にしがみついているようです。
「アリさんいっぱい。アリさんだー」
 いつのまにかホームに立っていた男の子が、手を振りました。
 すると、それに応えて手を振ろうとしたのか、アリの子が数匹、風に飛ばされて座席の向こうに落ちていきました。
「アリさん、とんでったー」
 コワン コワン コワン コワン
 踏切の音がしています。
 今度は、のぼりの電車が入ってきました。
 男の子はじいっと見て、「だあれもいないよ」と言いました。
 そのとき、すーん。かなぶんが、窓から電車に飛び乗りました。
「かたい虫さんだー。かたい虫さん、とんでたー」
 かなぶんは、座席の上をのちのち歩いていましたが、電車のドアがしまりそうになると、気が変わったのか飛び立ちました。ドアの閉まる寸前に、つるり。外に飛び出しました。
 そして、男の子の胸にとまったのです。
 男の子は、急に走り出しました。
 なんだかずっと眺めていた駅員さんも、急にしゃきっとして男の子を追いかけました。
 男の子は、階段をふたつ降りたところで駅員さんに抱きとめられました。
「おっとっと、ボク、危ないよ。ホームで走ったら危ないよ。ママはどこかな。ボクは幾つかな。ひとりじゃないよね、おちびさん」
 駅員さんは、なんだかただもう、いっぱい聞きました。
 ところが男の子は、汲みたての井戸の水のような顔で見上げると、やがて、「かたいの、かたいの。おむね、おむね」と言いました。
「ん? かたいの。かたいのって何かな?」
「こえ、こえ。かたいの、かたいの」
 小さなお手手が、これと指しているところは・・。
 駅員さんが、やっと男の子の胸に目をやったとき、とまっていたかなぶんが宙返りして、芝生のある向こうへ行ってしまいました。
「ああ。あれは、かなぶんだ。みどりのかなぶんだ。懐かしいな」
「みどい、みどい。みどいのかたいの」
「うん。みどり色のかたい虫だね。甲虫というんだよ。かたいかなぶんぶんだ」
「かあぶんぶん。かなぶんぶん」
 男の子は、いま沸騰した蒸気のように笑うと、そのままホームににかけ昇りました。そして、両足をいっしょにぴょんこぴょんこして踊りました。「かなぶんぶん。かなぶんぶん。かたいよ。かたいよ」
 駅員さんはむずむずして、右手をポッケに入れました。男の子といっしょに、ひざが揺れそうになるのを無理におさえて、ポッケの中で指をパチンパチンしてリズムを取りました。それに、口の端で笑っていました。
 そして、何か思い出しそうで、泣きそうになりました。
 コワン コワン コワン コワン
 また、踏切の音が鳴りました。
 男の子は突然踊りをやめると、駅員さんのひざのくらいの高さから見上げて、「アリさん、のってたー」と言いました。
 急行列車なので、この駅には停まりません。ぱちぱちっと過ぎていきました。
 急行列車は早いし向こうの線路を走っているのに、アリさんが見えたのかなあと思いながら、駅員さんが急行の過ぎた後ろを見送ると、もう、のぼりの急行が来ていることに気がつきました。
「あ。こっちも急行が来るよ」
 危ないから下がっているように注意しようと男の子の方を振り返ったとき、そこには誰もいませんでした。
 まさか。
 駅員さんは、ホームのはしからはしを、右左右左右左右左右左右左とばねじかけみたいに見渡しました。やっぱり、いません。
 電車が行くのをもどかしく待って、やっと通り過ぎると、おそるおそるレールの上を見下ろしました。
 誰も落ちたりした様子はありません。
 よかった。事故ではなかった。
 そのとき、ホームの向こうの端にいた駅長さんがやってくるところでした。
「駅長。ここにいた男の子は、どこに行きましたか」
 早くタバコをのみたくてせかせかしていた駅長さんは、目をカチカチっとすると、「なーに、ふぬけたことを言ってるか。さっきから誰もいないじゃないか。チミだけだよ、私のほかにホームにいたのは。立ったまんま、居眠りしてたんじゃないだろうね。ま、こんなに暑くては眠れないか」と、まくしたてると駅長室へ休みに行ってしまいました。
 駅員さんは、あたまをひとつ振ると、ホームの下へと階段を降りていきました。
 切符きりの同僚や売店のおばさんに、男の子がひとりでいなかったかと尋ねると、誰もそんな子は見ていないと言うのでした。
 それに、迷い子の届け出もないのでした。
 
 陽が落ちて、プラットホームの空気もぐらぐらいうのを止める時刻になりました。
 その日、駅員さんは夜の当番をすることになっていました。
 あと一台電車を見送れば、今日の仕事はだいたい終わりです。
 その最後の電車がやってきました。
 もう誰も、乗客はないようでした。
 ドアが閉まりかけようとしたとき、何かがつるり。外に飛び出してきました。
 そして、駅舎の灯りを目指して飛んでいきました。

 駅員さんが駅舎に帰ると、灯りの縁に、かなぶんがとまっていました。
 みどり色のかなぶんでした。
 駅員さんが冷えたお茶をついでイスに腰をかけたとたんに、かなぶんは急に灯りの周りを、円をかいて飛びました。
 ぶんぶん飛びました。ときおり灯りに当たって、かちと音をたてました。
 そして、つるっと窓から飛んでいってしまいました。
 駅員さんは、お茶をすするのも忘れて、ずいぶん長い間窓の外を見やっていました。
 風に、コオロギの声が混じりだしています。
 駅員さんは、長イスの方へ行って、ぼとっと横になりました。
 いい声だな。コオロギだな。
 けれど、耳の奥の方では、かなぶんの羽音が鳴っているような気がしていました。
 駅員さんは目をつむります。
 そうしていると、かなぶんを胸につけた男の子の声や足踏みが急に思い出されました。
 あの子は、たしかにボクと話したよ。どうして誰も気が付かなかったなあ。
 そのとき、コオロギの声がいっそう大きくなり、風がふんわりしてきました。
 ボクは、どうして駅員になろうと思ったのだったかなあ。
 駅員さんは、なぜかそんなことを考えていました。そのうち、眠ってしまいました。
 くしゃみがでて起き出すまで、少しの休息であります。

(おしまい)