闇を抱えこむ個人パートつー^^;
さっきの続きになるんだが。
京極夏彦と宮部みゆきが、妖怪はキャラクターだと喝破したのは秀逸だった。つまり、ただ怖い、怖ろしいままであったら、それは妖怪ではなく、単に怖いものなわけ。笑いとか愛嬌とかを付加して落ち着けるキャラクターが立ってはぎめて妖怪になったと。
これは、闇と付き合っていける“心の余裕”があって、これまたはじめて成立するんだよね。闇を、単にネガティブにとらえない余裕って点が大事。
発達心理やなんかに、そういう視点が「全く」欠けてるんですよね(^^)
また、ポジティブ論者にもね。
しかし、広い文化圏の中で、人工的な照明ばかり煌々とつけて、闇を排除しようとばかりやっきになってきてるわけだけど、それで闇そのものが消えたかってことよね。
宇宙論の中で、少なくとも95パーセントはダークマターで宇宙は出来ている説があるくらい、ちゃんと見れば闇ってものは圧倒的な量で
我々を“包んで”いることを感じるはず。
それを意識の中から、とくに社会的な意識の中から排除して、あとは知らん、勝手に個人で処理しろっつったら、そりゃオカシクなる人間か増えるわな。無意識のところで、処理しきれないのを抱えこんでんだからな。全員が晒されてる。
闇とのつきあいを、大らかに含んだお約束は最早感知すらできずに、余裕をさらに無くす方向で、互いにひっきりなしにつながってる風でないと不安でしょうがない。
もっと具体的に言うと、たとえば企業が“成果主義”になったら、最早その企業は新しい価値を生み出す能力を失ったとみていい。“余裕”をなくしたってことだから。闇と付き合ってなくて、生み出すことはできないんだよ。全ては、ダークマターから現出してんだから(^^)
また、闇と付き合うというと、酒を飲むとか、残酷な血だらけの描写や暴力を好むとか、淫行に走るとかと思いがちだけど、それ反対だから(^^) それらって、より余裕のない、笑いのない、愛嬌キャラクターのない空間に耽溺するだけだから。
闇やダークというものに対して、今のお常識は無知蒙昧を極めているし、スピリチュアルに代表される一見綺麗事な集金システムなどはさらに無知に拍車をかけてしまう。
闇とのつきあいをなくした文化は、実のところ電気ばかりが煌々として、無意識下に闇を突っ込まれた個人が、どんどんゾンビ化するという世界なんである。