“科学的”の限界、もう一つの側面
それは、分解して観察すること。
全体を観察できないの。
より分解していくわけね、アプローチが。
そうじゃないと、“定量的”じゃないからね。
左脳というか、右脳と左脳が分かれてるから、致し方なさすぎのんだけどね。
でも、全員が実はそうじゃないって、どっかわかってる。それで、極めて“定性的”な「感覚的」もしくは「人情味あふれる」捉え方で、語ったり伝えたりしてる。
でも、悲しいかな、“社会的束縛”に支配された感覚なもんだから、感覚そのものも分解もしくは分断的になってんだよな^^;
その傾向がますますなのは、耳栓して歩いてるプラスチック的な表情をみりゃ、わかるでしょ。
ホントの“詩的なアプローチ”ってのは、だから、これらと正反対のアプローチなんだよな。絶対に、分解じゃないよな。
左脳と右脳をどやったらつなげられるか。そいつが、テーマだよな、これからの。
そこには、“闇”このつきあいかたが、とっても大きくからんでくるハズなんだ。
オレくんにもまだ、はっきししてないけどさ。